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★★
電車の中で倖沢美和は、あの親子のことを思い出していた。
・・・・まだ幼い子供、父親だけで育てなるなんて出来るのだろうか。鮨屋をやっているというけど、育児に手が回るはずもない。いずれ誰かと結婚するというのか、そうでなければ、親を呼び寄せて育児をまかせるしかないだろうし。
なぜか彼女は、あの男の子が気になり始めていた。
・・・・わたしのことを頻りにママ、ママと呼んでいた。本当にわたしは母親に似ているのだろうか?
彼女は男から受け取った名刺を改めて見つめた。
名前は"北沢優志郎"、鮨屋の名前は"すし処きたざわ"、創業"弘化二年"とあった。
名刺を見入っているうちに、彼女は気付いた。
・・・・別れるとき、機内の通路から私を見つめるあの男の眼差し、なにか言い出し兼ねていたような口元、それは、"私を忘れないで欲しい"と、このわたしに訴えていたのだ。きっと、そうなのだ。でも、どうしたらいいのか。わたしには相談する者もいないし‥‥。
車窓には激しい雨だれの迷路が複雑な連鎖を織りなしていた。
・・・・もしや、これが恋と言うものかしれない。私にとって初めての恋なのか、遅すぎた恋。他人には決して言えなかった恋なき人生、それも終わりとなるのか。でも、わたしの歳は二十六。歳の隔たりが大きすぎる。しかも、相手は子持ち。とはいえ、結婚するわけでもないし、恋だけなら歳の差なんて関係ないはずだ。たとえ子持ちであろうと。
彼女は花火大会を待たずに、"すし処きたざわ"という鮨屋がどんなところにあるのか、一度見てみることにした。そう思うと、彼女自身の心に薄っすらとした晴れ間が広がった。
・・・・他人の生活をこっそりと覗き見るようなストーカー感覚、見つかれば軽蔑されるだけのつまらない悪戯のような感覚、でも、見つかれば何かが始まる。わたしの知らない何かが。面白そう。こういうことを、一度はやりたいと思っていた。
いつしか、車窓の雨だれが、激しくも清々しい恋の滝風を車窓に吹き突けて止まなかった。禊の滝の水しぶきのように。
彼女は横浜駅で市営地下鉄に乗り換え、終着駅のあざみ野駅で降りた。すでに雨は小降りになっていた。木田から借りた傘が邪魔になっていた。彼女はその傘を差すこともなく、雨に濡れながら昔住んでいた街の賃貸のワンルームマンションへと急いだ。なぜか"雨に唄えば"を口遊みながら。
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