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胸騒ぎのとき
なんか違うなあ。美輪の奴、恋人でも出来たんだろうか?福岡支店に行く前には、あんな風じゃなかった。もっと明るかった。はきはきしていたんだ。あいつは悩んでいるに違いない。変な男に絡まれているのかもな。そいつが俺の恋のライバルになるとはとうてい考えられない。まあ、何ごとにせよ、ライバルは必要だがな。自分を磨くためにもな。問題なのは、どのレベルの人間をライバルにするかだ。それによって人生は大いに変わって来る。今のところ俺のライバルになるような奴はいない。それが俺にとって不幸と言えば不幸なのだが。ともあれ、この際、俺としては思い切って美輪にプロポーズすべきなんだ。もはや、恋など愛など言い張るような年齢ではない。そんなものは俺にとっては終わったことなんだ。別に美輪が処女ではなかったとしても、そんなことに俺はこだわりはしない。俺が初めての男だったということは大いにあり得るし。これを不行跡な心だと思うのなら、勝手に思えばいいだろう。しかしな、純な心が不行跡な心よりも増して不行跡ということが往々にしてあるんだ。俺はこれまでそういう人間のなり合いをしこたま見て来たんだ。幾ら純な美輪でも、これからの実生活が最も重要だということぐらい分かっているはずだ。俺は同期入社の中では一番の出世頭だし、美輪もそのことは重々承知しているはずだ。月曜日には人事異動の発表がある。今年の四月以降、同期入社の者が次々と異動しているし、今度こそは俺の異動の番になるだろう。一刻も早く美輪にプロポーズしなくてはならない。これを切っ掛けに、二人で世間で言うところの新生活とやらをスタートさせるんだ。もちろん、上辺だけは、"愛している"と言うつもりだがな‥‥、
その夜、木田譲二は、ベッドの上で美輪とのこれからについて考え巡らせていた。なぜか、 枕元には、レーモン・ラディゲの"ドルジェル伯の舞踏会"という文庫本が無造作に放ってあった。その本は汚れ、幾ページも捲れ返っていた。確かに彼は常々伯爵のような人生を歩みたいと思っていた。それが叶えられないことも知っていながら、出世街道に乗り遅れまいとして必死になり、自分の弱気の性格をひたすら隠すことに専念していたのだった。
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