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男のもう一つの顔
今日も雨なのか。真夏だというのに、軒先の緑木の葉叢から雨の滴が絶え間なく流れ落ちている。今年も異常気象になりそうだな。今更驚くことでもないが、花火大会が危ぶまれる。でも、吹き寄せて来る涼しい風が心地よい。なぜか気持ちが洗われていくようだ。
遠い山間の、名もない神社だった。境内にある渓谷の滝での禊を思い出す。あの頃、俺は見習い中の鮨職人だった。俺のゆるむ気持ちを引き締めるために、滝にでも打たれて何もかも洗い流して来いと、親父から叱咤されたものだ。
俺は迷っていた。親には言えなかった、結婚相手は自分で決めるということを。親が奨めた結婚相手を俺は幾度も撥ねた。俺は親の反対を押し切り、亡くなった妻、美輪と一緒になった。
くしくも、飛行機の機内で出会った彼女は亡き妻と同じ名前なのだ。顔かたちすら似ているのだ。これを奇跡と言わないで何と言ったらよいのだ。
足音が聞こえる。降りしきる雨の中を彼女が歩いて来る、俺にふたたび逢うために。あのたどたどしい足取りで、雨しぶきの泥水に汚れてまでして。なぜか、そんな気がしてならないのだ。
二階の仏壇には亡き妻の遺影が飾ってある。彼女に見せて差し支えないとはいえない。とはいえ、隠す必要もないだろう。
「妻よ、誤解しないでくれ。今度こそは浮気ではないんだ。君との約束を破った訳ではないんだ。君は再びこの世に甦ったんだ。君は、あの世から、もうすぐこの家に戻って来るんだ。もはや、あの遺影は遺影ではないんだ。前世の君の記念写真に過ぎないんだ。現世のこの俺は、決して君を裏切るようことはしない。断じて…」
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