夏の夜に唇を寄せて

出会いのとき

　男はどこか嬉しそうに彼女を見つめていた。
「この子はもうすぐ三歳になります。可愛い盛りです。よろしかったら、お名前を教えて頂けますか？」
「倖沢美輪(さちざわ みわ)と言います....」
　彼女は、こわばった口調で答えた。しかし、男の子の幼い円(まど)かな表情と長いまつ毛が彼女の気持ちを和ませていた。

　沈黙の時間が続いた。それは飛行中の機内では当然のことではあったが、ときにはこうした寓意的な無言の椿事もあるのだろうと彼女は自分に言い聞かせた。
　つれづれに、男は彼女の方を見た。彼女も男の方を見た。目と目が合う度に、なぜか男に別れの予感が兆していた。彼女にも、それは兆していた。ひとときの椿事にも、幾久しい人間関係の別れのような雰囲気がすでに二人を包んでいた。
　････この女と別れたくない。今すぐにでも告白したい。俺は寂しくてたまらない。俺と一緒に行こうじゃないかと。なんとかならないものだろうか‥‥。
　彼女は男の寂しげな表情を見て泣きそうになった。その表情は、彼女が想像する禁断の世界よりも、より深刻なもののように思われた。この男は一体なにを言いたいのか、それを想像すると彼女は涙を流した。その彼女の表情を見た北沢の底知れない潤んだ瞳が、さらに彼女の涙をさそった。