第二章 ダブルブッキング

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第二章 ダブルブッキング

 椎名先輩から、伊織の受け入れ準備が整ったと連絡が入ったのは、三人で会った夜から一週間後のことだった。私たちは再び伊織のアパートで顔を合わせ、作戦の確認をした。  伊織の入社は三日後。同日入社の男性が一人いて、彼は経理部に配属される。  伊織は、ご主人の転勤で引っ越しが決まっている女性の後任として総務部に配属となる。まずは一週間後に退職する女性からの引継ぎを受け、新しい職場に馴染むように努力する。  伊織のSHINAでの通常業務に不安がなくなった頃合いを見計らって、社内ネットワークに不審な点がないかを調査する。 「伊織、私はあなたのエンジニアとしてのスキルは評価しているけれど、それ以上に人を見る目を買っているの」 「人を見る目?」 「ええ。観察眼、直感と言ってもいいわ。それらは訓練はもちろんだけど、センスがなきゃ活かせないと思うの。あなたには、センスがある。そして、直感を裏付けられる技術(テクニック)も」  私は観光に異動の際、伊織を第二秘書に据えた。そして、情報管理全般を任せた。観光内のネットワーク管理や、敵対企業の調査など。四年間、百合さんの元で学んできただけあって、彼女のスキルは申し分なかった。  あと、伊織に必要なのは『対人間』のスキル。彼女は軽いコミュ障で、常に他人に壁を作り、決して感情的にならない。冷静なのはいいことだ。この仕事においては。 「買い被り過ぎじゃないですか?」と、伊織が言った。  わかりにくいけれど、彼女の声にわずかな緊張が感じられた。 「楽しみなさい、伊織。仕事だと割り切って、いつもと違う自分になりきるの」 「楽しめませんよ……」と言って、伊織はため息をつく。  先輩が心配そうに伊織を見る。 「そお? 案外病みつきになると思うけど? 出来るなら私がやりたいくらいよ」 「せめて、もう少し情報をもらえませんか?」 「ダメ。あなたが知っているはずのない情報を口にするなんて初歩的なミスは避けたいから。それに、知りたいことは直接相手に聞けばいい。キーボードを叩いて表示される文字だけが情報じゃないのよ?」  私は腕時計を見て、残っていたビールを飲み干した。 「あなたの経歴だけど、派遣会社から転職したことにしましょう。あまり嘘で固めると辻褄が合わなくなってしまうから、T&N(うち)のイベントで椎名社長に声をかけてもらった、ってことにしておけば、少しくらいあなたと先輩が親しくしても噂の対象にはならないだろうから。そこら辺は二人で詰めて」と言って、私はテーブルに置いてあったスマホをバッグに入れた。  立ち上がり、ジャケットを羽織る。 「あ、入力業務は通常の三倍は時間をかけてね。一分間で五百字も入力しちゃダメよ」  私はひらひらと手を振って、伊織と先輩に背を向けた。  第二秘書といっても、この一年、伊織が私の隣を歩くことがなかったため、社内でもそれを知る人間は数人程度だった。だから、伊織が休職届を提出しても誰も気に留めなかった。  社内に友達を作るなと言った覚えはないんだけど……。  私は少し複雑な気持ちになった。  他社に潜入なんて、伊織には荷が重すぎただろうか。  けれど、その考えはすぐに私の頭から消え去った。考えても仕方がないのだ。  仕事(ミッション)は既に始まったのだから。  予期せぬ問題(トラブル)が発覚しても、続行するしかない。  問題のない仕事は、まず、ない。けれど、まさか潜入初日に問題が発覚するとは思ってもいなかった。 『今回の仕事にあなたのご主人が関わっているとは、聞いていませんでしたが?』  珍しく勤務時間内に電話をかけてきて、彼が言った。彼の言葉の意味が、私には理解できなかった。 「蒼が? どういうこと?」 『知らなかったんですか? SHINAに同時入社した経理部の芹沢圭(せりざわけい)築島蒼(つきしまそう)の部下ですよ』  芹沢圭……。  蒼から聞いたことのある名前だ。  確か、生意気だけど優秀な男、だと言っていた。  蒼の部下が、どうしてSHINAに……? 『開発と観光の共同プロジェクトのプロモーションで、広告デザインをSHINAに発注することが内定しているようですが、関係があるでしょうか?』  共同プロジェクトの担当は充社長で、私はノータッチだった。 「その件は私が蒼に確認するわ」 『わかりました』と言うと、彼の方から通話を終えた。  さて、どうするか……。  私はスマホのアドレス帳から先輩の名前を呼び出したが、発信せずにスマホを置いた。  まずは蒼に確認だな。  今日は早く帰ると言っていた。  私は秘書に内線電話で、定時で帰ることを伝えた。
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