第六章 チョコレートを溶かす体温

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 チョコレートが残り一粒になり、俺は悩んでいた。  家を出て三週間になろうとしている。  正直、何が原因でこうなったのか、咲にどうして欲しいのか、俺はどうしたいのか、忘れかけていた。  正確には、どうでも良くなっていた。  咲に会いたい。  思いっきり抱き締めたい――。  SHIINAとの業務提携に関しては、芹沢が順調に進めている。今のところ、情報も洩れてはいない。  咲と椎名社長の過去に嫉妬したし、仕事とはいえ今も連絡を取り合っていることにいい気はしないけれど、二度と連絡を取るなと言ってすっきりするかといえば、それも違う。  椎名社長が知り合った時期を考えれば、その頃の咲を責める気もない。  結局のところ、ただの嫉妬なんだよなぁ……。  毎日整えられるベッドを見る度、虚しくなる。  家にいる時は、後に起きた方がベッドを整えていた。簡単に、だが。  二人で乱して、どちらかが整える。夜になれば、また二人で乱す。  枕や布団は咲の匂いがして、一人の夜も寂しくなかった。  けれど、ホテルのベッドはいつも皺がなく、匂いもなく、冷たい。  ため息をついて起き上がり、スマホでメッセージ画面を開く。 『ただいま』と送ってから一時間。既読にならない。  残業?  誰かと会ってる?  気になって、気になって、咲の番号を眺めてはスマホを置き、また眺める。  片思いしてる中学生か――!  机の上のノートパソコンを開き、スリープモードを解除する。画面いっぱいに並ぶ数字に、またため息をついた。  ドアベルが鳴り、立ち上がった。  いつまで泊まるかがわからなかったから、毎日翌日分の前精算をしていた。俺が帰ると、コンシェルジュが来て翌日の宿泊を聞き、俺はカードを渡す。  俺は、ドアを開けた。  そして、瞬きを忘れた。  さ……く――?  会いたい気持ちが幻覚を見せたかと思った。  幻かもしれない咲は、今にも泣きそうな潤んだ瞳で俺を見上げ、不安気に口を開いた。 「最後のチョコレート……貰いに……来ちゃった」  幻でも良かった。  俺は咲の腰を抱き寄せてドアを閉めた。  両手で抱き締める。  三週間ぶりの咲の匂い。感触。 「蒼……」  背中をギュッと掴む手の温もり。 「咲……」  お互いに言いたいこと、言わなきゃいけないことがあるはずだった。けれど、いざ本人を前にしたら、言葉は音にはならず、互いの唇に絡めとられた。  キスとか口づけ、なんて甘いものじゃなく、『貪る』が相応しい。  理性が崩壊すると、人間もただの『獣』。  息も忘れるほど舌を絡ませ、味わう。 「ん……。は――ぁ……」  隙間から漏れる咲の声が、鼓膜を震わせる。  止まらない。止められない。 「そ……お……」  強力な磁石のようにぴったりと重なって離れない互いの身体が熱くなるのが、服越しでもわかる。  腰を抱いていた手を咲の胸に滑らせた時、ドアベルが鳴った。構わずに柔らかな胸の感触を堪能する。  もう一度、ベルが鳴る。 「明日のご予定をお伺いしたいのですが」  今度こそ、コンシェルジュだった。  俺はさっとシャツの袖で濡れた唇を拭い、ドアを開けた。咲はちょうどドアの陰になって、コンシェルジュからは見えない。 「お休みのところ、申し訳ございません」  礼儀正しく職務を全うする彼に、俺は言った。 「明日、チェックアウトします」 「かしこまりました。ご希望がございましたら、チェックアウトを十二時に変更できますが」 「そうさせてください。それから、八時にモーニングを二人分、お願いします」  さすが、プロ。 『二人分』と聞いても、眉一つ動かさなかった。 「かしこまりました」と目線を下に会釈すると、彼は静かに立ち去った。  ドアを閉めると、咲が息を弾ませながら涙をこぼしていた。 「帰って……来てくれるの……?」  俺は、咲の手を引き、部屋の中に導いた。  ベッドに座らせ、冷蔵庫から冷えた箱を取り出す。中には最後の一粒。  包みを開き、黒々と光沢のあるチョコレートを親指と人差し指でつまむと、咲の唇に押し当てた。
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