危険な花言葉

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危険な花言葉

 まず、最初にはっきり言っておきましょう。  彼とは愛し合っているわけではないのです。  お互いに他に想いを寄せている人がいるわけでもなし、親にこの人と結婚しろと決められても、それにわざわざ反発するような材料が何もなかっただけ。お互いに、結婚というものに夢など抱いていなかったのも、この話がすんなりと進んで行った要因であったでしょう。お互いのことに興味がなくても、それで問題もなかったのですから。  淡々と進んで行く物事を受け入れる私たちに、周りが喜ぶのであるのならば、それでいいではありませんか。  波風も立たないけれど、ロマンスの欠片もない。  そんな私の婚約者が、ある日、ザクロの花を一輪持ってやって来たのです。  まあ、お花なんて、私に対してそんなロマンチックなことを、この人がするだなんて……。  私だって、感動しないわけではないのですよ。ほんのりと、心の奥の方で、小さな蝋燭に淡い炎が灯るような感覚。ああ、愛というのは、きっとこうして育まれていくものなのですね。  愛など無くても問題がないと思っていたものの、あったらあったで素敵なものではないですか。  ほんのり頬を赤く染めて、私がザクロの花を受け取ると、彼は優しく微笑んで言ったのです。  この可愛らしい花はあなたにお似合いです。花は何も語りはしないとお思いでしょうが、そこにはちゃんと語られるべき言葉が宿っているのですよ。花言葉、なんて、誰が考え出したことなんでしょうね。  ザクロの花言葉とは一体何なのでしょう。  私は、自分の胸が高鳴っているのを無視はできず、こんなに彼に対してときめきを覚えたのは初めてのことでした。ですから、彼が帰った後に、ザクロの花言葉を調べてみたのです。  愚かしさ。  何ですって。私はこう見えても、品性と知性にかけては、日ごろから不断なく磨き続けているというのに。  せっかくうっとりとした気持ちでいたのに、私は途端にその花を床に叩きつけてやりたくなりました。しかし、いけませんわ。このお花には罪はありません。ただ、粛々と美しく咲いているところを切り取られさえした、むしろ、可哀そうな子。  私は、その花をそっと、自分の髪に飾りました。  ええ、わかりました。彼がそのつもりならば、私もお花で受け取ったメッセージは、お花で返しましょう。  それもまた、私が愚かではないことを彼に示す最も有効な手段ですからね。  花言葉を必死に調べました。本来ならば、そこに口にはできない秘かな恋心などを込めて渡すのが、可愛い女というものでしょう。 ですが、これは言わば戦いなのです。誰にも気付かれず、ひっそりとテーブルの下で足を蹴り合うのと同等、目に見えぬ闘争。  それならば、ふさわしいお花はこれ。  あなたとの戦いを宣言する。  そんな花言葉を持った、タンジー。私は、次に彼と会う時に合わせて、急いで手配をしました。  さて、彼は一体どんな顔をするかしら。  自分の中で一番美しく見える笑顔を作り上げて、私は彼にタンジーの花を渡しました。それを受け取った彼の表情は些かも変わることはなく、一体何を考えているのかわからなかったのが、どうにも口惜しいですが。  いつだって、本心を見せたことがない。それでも特に問題はないと思っていましたが、こうして何の痛手もないように見えると、実に腹立たしい。  今のところ、密かに見せた本音が、人を馬鹿にしたあの花言葉だけであるとは、完全に私が負けているようではありませんか。そんなこと、許せるはずもありません。  ふむ、と、唸りながら花を眺めていた彼は、憎たらしくも、至極落ち着いた様子でこんなことを言いました。  そういえば、ホオズキ市はもう終わってしまいましたね。一緒に行けたらよかったのですが。  偽り。誤魔化し。  それがホオズキの花言葉。花言葉を嫌と言うほど調べたので、私の頭の片隅にはありました。  本当に憎たらしい人。どこまで人を馬鹿にすれば気が済むのでしょうか。  なんとかここで鼻を明かしてやることはできないものか。こちらが敵意むき出しだから、彼に軽くあしらわれてしまうのでしょう。それならば、少しばかり方向を転換するしかありません。  そうですね。ぜひ行きたかったです。ホオズキ市。……そういえば、親戚からゴボウをたくさんもらったんです。ゴボウの花言葉はご存じですか。ゴボウは花を楽しむものじゃなくて、食べるものですけれど。でも、花は咲きますでしょう。ゴボウの花にだって言いたいことはあるんです。  私に触らないで。いじめないで。  ここで使えば、ゴボウの花言葉は、少しばかりはいじらしい女に見えたりするでしょう。けれど、彼はそれに対して相変わらず顔色も変えない。勝ち誇ったように浮かれる様子すら見せないんです。 そのくせ、どこか宣戦布告と取ることも出来ることを、飄々と言ってのけるのだから、本当に憎たらしい。  なるほど。やはり、あなたはなかなか可愛らしいところがある人だ。次に持ってくる花については、よくよく吟味しなければなりませんね。  そうですか。でも、それはあなたの本音ではないことはわかっています。今度はどんな皮肉のこもった言葉を送って来るのかしらね。  静かに見えぬ火花を散らしたまま、その日の皮肉合戦は膜を閉じたわけですが。さて、では、次に会った時に私もどう応戦してやろうかと頭をひねって、眠れなくなったりもしたものです。  よくよく考えれば、良くも悪くも、これほど彼のことを考えていたことは今までになかったのではないでしょうか。  もしかしなくても、これは彼の術中にまんまと嵌められてしまったのではないの。  そのことに気が付くと、ますます悔しくて眠れない。  いいえ、これはただ憎たらしくて頭から追い払うことが出来ないだけです。決して、愛などという、甘やかなものではありません。  私は必死に惨めな抵抗をするばかり。  真夜中の三時、いくら羊を数えても、ちっとも眠りに落ちることが出来ないので、私はベッドから起き上がって窓を開けました。  もうほとんど夏のものになった夜風は纏わりつくようで、それは、張り付いたものを剥がして捨てようとしても剥がれず、どうしても彼のことを考えてしまう私の頭の中身のようでした。  もしかしたら、彼だって、どういう意味であれ、私のことばかり考えて、こうして眠れずにいるのかしら。  まさかね。  途端に馬鹿馬鹿しくなって、そこでようやくぐっすり眠ることが出来たわけですが。  その次に会った時に、彼が持ってきた花は何だった思います?  花、ではなかったのです。  四葉のクローバー。  幸運の印とは言いますが、私は別の花言葉も知っています。そりゃあ、散々調べましたからね。  私のものになって。  一体、どうしたことでしょう。どちらの意味にしても、何故いきなり彼はこんな、何の皮肉も毒もない、まっすぐな言葉を送ってきたのでしょうか。  これもまさか、何か裏があるのではないの?  疑念に駆られる私の心中をさらにかき乱すように、彼は優しく微笑んで言うのです。  必死で探したんですよ。ちゃんと見つかってよかった。  いきなりどうしたというの?  私の心臓は今にも暴れ出しそうでした。  何か納得できるような筋道を考えるとすると、なるほど、アメとムチの上手い使い分けということですか。そう解釈した私は、すかさずこう返します。  あなたは、なかなか枯れないというポトスも枯らしてしまうような人だと思ってましたけど。こんな小さな葉を一生懸命見つけるなんて。しかも、私のために。  こんな私の皮肉にも、彼は穏やかな笑みを崩さず頷きました。あくまでも屈さない、そのつもりなのですね。  でも、もはやそんなことは私の独り相撲だったのです。  彼は、クローバーを握っている私の手を、上からそっと握りました。伝わってくる熱が、脳を溶かして私をどんどん愚かにしていくような感覚。  そんなこと、自分で自分が許せないけれども、握られた手を振りほどくことも出来ない。彼は、ただ私のからかい方を変えただけかもしれないというのに。  もう、いい加減にしてください。私を玩具にして遊ぶのは。  私は、必死で声を絞り出しました。情けなく、震えてしまっていたけれど。そんなことを言ってしまっては、もう負けを認めてしまったようで、悔しい。でも、もう私はどうにも反撃の術が思いつかないほど、愚かになってしまっていたのです。  当然、彼は勝ち誇ったように厭らしい笑みを浮かべたりしているのだろう、そう思ったけれども、まったく茶化した様子もなく、囁くように言いました。  そうじゃないですよ。もう少し素直に受け取ってください。とはいっても、そんな捻くれた受け取り方をされてしまうように、私がしてしまったんですから、仕方ないかもしれないですが。  何だって今更そんなことを言うのかと、私は、思いっきり声を荒げてしまいました。彼の囁き声を、どこかへ吹き飛ばしてしまうように。  それならば、どうして最初にあんな嫌味を込めた花なんて送って来たんですか。  彼は困ったように、苦笑をしました。この時初めて、ほんの欠片であっても、彼が本心というものを見せたような気がして、ひょっとして私は負けたわけではないのではないかと、そんなことを考えてしまうくらいには、やっぱり私の脳は愚かになっていたのでしょう。  ただ、私はあなたが怒ったところも見てみたかっただけです。あなたときたら、私に対しては、まるでどうでもいい、というような態度だったので。ただ綺麗なお花をあげたところで、喜びもしないだろうと思ったんですよ。……どうです、嫌味を言ってきた私に対して腹を立てて、どうやって言い返してやろうかと、私のことをずっと考えていたでしょう。  悔しいけれど、全くその通りです。それは自分でもちゃんとわかっていました。けれど、素直にはなれない私は、彼から顔をあからさまに逸らして、つい強がってしまうしかないのです。  だからって、そんな嫌がらせで気を引こうなんてことをするなんて、子供じゃあるまいし、もっと大人らしく伝えたらどうですか。  ついに彼は、ふふふふ、と、声を上げて笑い出しました。そんなに優しく笑う彼を見たことがなかったので、私はますますどうしたらいいのかわからなくなるばかりで。  まったくその通りです。でも、あなたはちゃんと『花言葉』というものを知ろうとしてくれて、興味を示してくれた。ちゃんとそこに反応してくれるかどうか知りたかっただけなんですよ。本当にどうでもいいと思ったなら、それはただの花でしかなかったでしょうしね。ちゃんと、あなたの中で私の存在が意味のあるものに変わったというのは、とても嬉しいことです。いずれにしても、真っ当な方法では私たちはちゃんと向き合おうとしなかったでしょうから、いいんじゃないですか、こういうやり方でも。  確かに、どんなに頑張って屁理屈をこねくり回そうとしても、それは否定できません。それに、どうせこれから先の長い人生を一緒に過ごすのであるならば、ちゃんとお互いのことを見る方が、きっと心にも花が咲くはずなのも事実です。  正論を並べ立てられて、納得しか出来ないと、余計に悔しくなるけれども。    これから、よろしくお願いしますね。  彼が耳元でささやく言葉にくすぐったくなりながらも、私は消え入りそうな声で答えました。  こちらこそ。  さて、こんな奇妙な私たちの人生はどうなるのでしょうか。いつか、永遠の別れが来るその日まで、一緒にいるでしょうか。  それは、誰にもわからないこと。
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