一 出会い~七瀬晴希~

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 駅前通りには、冷たく乾いた秋の風が吹く。握られた手は、彼のせいでまだ冷えていた。その手をポケットに突っ込んで温めながら、晴希は先ほどの『つまんねえ演奏』を思い出していた。  彼はさっき、ピアノをとても上手に弾いて、鍵盤(けんばん)を正しく叩いていた。顔もスタイルもいい彼の姿は、視覚的に言えば、実に魅力的だった。また、あれだけ辛辣(しんらつ)な言葉をぶつけたのにもかかわらず、なにも言い返してこなかったことを考えれば、たぶん、悪人でもないのだろう。けれど、あれだけ外見に恵まれて、それなりに正しく上手に弾くことに()けてはいても、ピアニストとしての彼はなにか大切な部分が欠けている気がした。おそらくそれは、彼の音がからっぽだったせいだ。  もったいない。あれだけの技術があるのに、どこも間違ってはいないのに、その技術は曲の中にまるで()かされていないのだから。ただ、弾いているだけ。機械のように、正しいだけ。そんなものは音楽ではない。ピアノの演奏に最適であろう彼の細く長い指も、その悲しさに()えきれず、泣いているようだった。  もったいねえ演奏しやがって。指が泣いてるっつーの。でも、あれだけの技術を持ってんのに、なんであんなに粗末にして曲を弾くんだろ。あんなに感情を失くして、からっぽの音で……。  普通、演奏者はどうしたって弾く曲に感情を乗せてしまうものだ。弾く自分に、あるいは旋律に酔いしれて、自分なりの音を出すことこそが楽しいのだから。あんなに教科書通りに弾くのはむしろ難しいかもしれない。きっと、とてつもなく器用な人間なのだろう。  晴希はそこまで考えてから、ふと、思う。彼がああなったのには、なにか理由があるのだろうか。  理由――。失恋でもしたか。  あぁ、くだらない。と晴希はかぶりを振った。そんなことはどうだっていい。別にへたくそな演奏者がいようが、金持ちの道楽で音楽をやる人間が演奏者を気取ろうが、自分よりも遥かに上手な演奏者がいようが、晴希はどうだってよかった。それがイケメンでもそうでなくても。さっきみたいに技術ばかりの演奏者は珍しいが、他人がどうあれ、自分は自分だ。彼が晴希と違っても、ちょっと珍しくても、気にすることはない。  けれど、どうしてだろう。晴希はまだ、彼にこんなにも苛立(いらだ)っている。足早(あしばや)に地下鉄の駅を目指して歩きながら、まだ耳に残っている彼の(かな)でる旋律を思い出しては、また鼻を鳴らす。  そもそも感情を乗せたり、演出するというのはセンスだ。と、すると、彼にはセンスがないのかもしれない。あの長身に似合っていたしゃれた服も、もしかしたら彼女にコーディネートでもしてもらって着ているだけなのかもしれない。そこに意思などないのかもしれない。そう思うと、あの演奏にも妙に納得してしまった。  それにしても正確な音ではあった。あのセッションも悪くはなかった。(ひま)つぶしにはちょうどよかった――と思ったところで、今日、あの店に行った理由をもう一度思い出す。  明日また、店行かなきゃな……。  ちょうど、地下鉄のホームでは(ほこり)くさい風に乗って、電車が入ってくるところだった。晴希は階段を駆け下りて、一番端の扉から電車に乗る。その一番端の席に座って、イヤホンをポケットから取り出し、ケータイに差し込む。指先はすぐにお気に入りの曲を慣れたように探した。ほどなくして、好みの曲が耳元で流れ始めると、晴希はゆっくりと目を閉じた。
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