二 再会~花菱和臣~

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「うわ……!」  扉が開いた瞬間、全身に迫力のある音が響く。振動が腹の底まで届いて、体中がスピーカーの中に入り込んでしまったような感覚に(おちい)る。音の元を辿(たど)るように店内を見渡せば、店の奥にあるステージの上のバンドが目に入った。 「へぇ、すごいな……」  ギター、ベース、ドラムを演奏する三人はひと目見ただけでもわかるほど、確かな技術を持った演奏者たちだった。指の動きやリズムにはわずかな狂いもない。全身に響くほどの音量でありながら、耳に心地がいいのはその証だ。さらに、ステージの横に黒い布を掛けられて置かれている大きなシルエットを見て、和臣は目を(みは)った。  グランドピアノもあるのか……。本格的だな……。  しかし、バンド演奏にグランドピアノとは変わっている。普通ならバンドにはキーボードがお決まりだとばかり思っていた。この店では、グランドピアノとロックバンドがセッションすることもあるのだろうか。  ぼーっとステージの方を眺めていると、店員が気付いて、ふたりのそばへやってきた。彼はおそらくボーイだ。 「いらっしゃいませ。本日はご予約されてらっしゃいますか」 「ええ、尾木と申しますが」 「尾木様、ですね。お待ちしておりました。お席へご案内致します」  ボーイはにこやかに笑みを浮かべると、ステージの目の前にある中央の丸テーブルの席へ、和臣と尾木を案内した。 「いらっしゃいませー!」  不意に店内のバーカウンターの内側にいるひとりの男が、声をかけて頭を下げた。思わず会釈(えしゃく)をして返すと、「あの人がマスターなんだ」と尾木が教えてくれた。なるほど、胸元にはいかにも手作りらしい名札が付けられていて、そこには『マスター♡まなと』とある。  カウンター席にはすでに数人の客が座っていた。こんなビルの地下にあって、しかも、まだ午後六時すぎだというのに、これだけの客入りがあるというのは、ここはそれなりに人気がある店なのかもしれない。 「お前、なに飲む?」 「俺は……(なま)で」 「(なま)か。オレはハイボールにしようかな」  尾木が手を()げると、先ほどのボーイがやってきて、注文を取った。和臣は再び目の前で演奏するバンドに目をやる。ギター、ベース、ドラムを演奏する三人は全員が男性だった。一番近くにいるのはベーシストだ。  細身の体つきではあるが、ベースを支える腕のたくましさは明らかに男のものだ。(げん)を叩くようにしながら(かな)でるその手指もごつごつとして骨ばっていた。癖毛なのか、パーマをかけているのか、うねるような長い黒髪を揺らしながら、彼は重みのある低い音をリズムに乗せて(かな)でている。  その後ろにはドラマーがいた。太く筋肉質な肩と腕は、まるで格闘家か、アスリートのようだ。首もがっしりと太く、髪は短く整えられている。年齢は見たところ、三十代半(なか)ば、といったところだろうか。  不意にドラマーの男と視線がぶつかった。すると、彼の目がふっと細くなる。和臣は慌てて目を(そむ)け、ベーシストの隣、ギターを演奏する若い男へと目を移した。ベーシストの男も細身だが、ギタリストの彼もこれまた細い。首元は細く骨ばっていて、鎖骨がくっきりと浮き出ている。そこにステージの照明が当たって影を作っていた。しかし、彼の細い腰や腕は、繊細(せんさい)そうでありながら、しっかりとギターを支えている。血管が浮き出ている腕には、たくましさすら感じた。  リズムに乗ってさらさらと揺れる髪は、おそらくは明るい茶色なのだろう。だが、店のスポットライトのせいで金髪のようにも見える。――と、そこまで彼の姿を見たところで、和臣は(まゆ)をひそめた。  ん――? この人……。  その立ち姿には見覚えがあった。和臣は目をよく()らして、今一度、ギタリストを見つめる。いや、そんなことをせずとも、この席から彼の姿は非常によく見えるわけだが、今は顔を(うつむ)かせているせいで、しっかりと彼の顔が確認できなかった。しかし、不意にギタリストの男が顔を上げ、ベーシストの男と目配せをした。その一瞬で、和臣はハッと目を(みは)る。  やっぱり、あの人だ……。  記憶が(よみがえ)り、思わずその男に釘付(くぎづ)けになる。途中でボーイが飲み物を運んできてくれて、尾木と乾杯をした……ような気がするが、意識はまるっきり、ギタリストに集中してしまっていた。間違いない。彼は、ちょうど今から二週間前、楽器店で和臣とセッションをした男だ。  ただし、セッションをしたと言っても、別に「一緒にやりましょうか」と声を掛け合ったわけではない。楽器店で、ただなんとなくピアノを弾いていたら、突然、そこに彼が現れて、ギターを合わせてきたのだ。そんな経験はこれまで一度だってなかった。ジャズやJポップなんかを弾いていたのなら、まだわかる。しかし、あのとき和臣が弾いていたのは、クラシック曲。パッヘルベルの『カノン』だったのだ。  今、思い出しても奇妙な体験だった。自分の(かな)でる音楽の中に、誰かが不意に入ってくる。そして交わり、ひとつになる。不思議な感覚だった。だが、とても心地がよかった。  もっとも、和臣だって誰かと合奏くらいはしたことがある。しかし、基本的にクラシック音楽をひたすら弾いてきた和臣にとって、その経験はとても少なかった。また、合奏したとしても他人と音を合わせるのには非常に苦労して、出来上がっても満足のいくケースは非常に(まれ)だった。そこには音、感覚、リズムのずれがどうしても生じるからだ。誰かとひとつの曲を(かな)でようとすれば、どうしても違和感を覚えてしまう。心地いいなんて思うことは、一度もなかった。  それなのに彼は突然やってきて、和臣の音楽にすっと入り込んできたのだ。ただ者ではないだろう、と迷いなく信じてしまったのは言うまでもない。さらに、あのほんの数分間、和臣は楽しいと感じていた。ピアノを弾いていて、楽しい――と。  もうずっと、ピアノが楽しいなんて感覚なかったのに。あのとき、俺は何時間でも弾いていられると思った。あの人のギターと、俺のピアノがひとつになっていくのが、心地よくてたまらなかった……。
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