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あの人
今日は私と主人の四十年目の結婚記念日。
そして・・・。
主人の命日になりました。
死因は心臓発作。
あの人は何の前触れもなく、あっという間に逝ってしまいました。
私と主人が出会ったのはお互い二十歳のときで、お見合い結婚でした。
お互い好きかどうかも分からぬまま結婚し、翌年には娘が生まれ、気が付けば結婚してから四十年もの歳月が流れていました。
いつもと変わらぬ日常。
朝、主人を見送るときにまさかこれが最後の見送りになるなんて思いもしませんでした。
あまりにもあっけなく逝ってしまった主人に対して流す涙もなく・・・・。
葬式の最中もただ、茫然と主人の遺影を見つめていました。
主人は・・・“あの人”は無口で無愛想な人でした。
滅多に笑うことはなく、絵に描いた亭主関白のような人で、家に帰れば“飯、風呂、寝る”の三言位しか口を開きませんでした。
娘もそんな父を嫌っていました。
「お母さんはなんであんな人と結婚したの?」
それが娘の口癖でした。
“なんで?”と聞かれても昔はお見合い結婚に好きも嫌いもありませんでしたから・・。
私自身もあの人に愛されていると実感したことはありませんでした。
誕生日も結婚記念日も祝ってもらったことはただの一度もなく。
“愛してる”の一言はもちろんのこと、“ありがとう”と感謝されることもありませんでした。
初めて娘を抱いたときも、孫が生まれたときも。
いつも仏頂面で決して笑う事のない人でした。
この人には感情がないのか?と思ったことも何回もありました。
そんな主人ですから、二人の結婚記念日なんて、きっと覚えているわけもなく。
いつも通りにあの人を見送り、いつものように洗濯物を干していたとき、珍しくあの人の会社から電話がかかってきました。
話の内容を聞き、私は急いで病院に向かいました。
しかし、私が行った頃にはあの人はもう冷たくなっていました。
本当にあっけなく逝ってしまった。
何も結婚四十周年目の日に死ななくてもいいのに・・・。
まぁ、あの人はそんなこと覚えてもいないんだろうけど。
私は亡くなったあの人を目の前に、そんなことを冷静に考えていました。
そして、葬儀も一通り終わり、あの人が亡くなってから一週間経ちました。
一人娘が嫁いでからは、今まで二人で暮らしていた家がいきなり広くなったように感じました。
今までだって、別にあの人と楽しく会話していた訳でもないのに・・・。
人間って不思議なものですね・・・。
長年暮らしていると、不思議と“情”が湧いてくるんでしょうか・・?
今まで二人で暮らしてきた家は、一人で暮らすにはあまりにも寂しすぎました。
あんな主人でもいないよりマシか・・・。
そんなことを考えていると、突然玄関のインターフォンがなりました。
誰かしら、こんな時間に?
時刻は夕方。どうせ近所のおばさんが回覧板でも持ってきたのだろうと重い腰を上げました。
ガチャリと玄関のドアを開けると見慣れない若い女性が立っていました。
「こちら、伊崎伸晃さんのご自宅でお間違いないでしょうか?」
「はい、そうですが・・・あの、どちらさまですか・・?」
なぜ、見ず知らずの若い女性が自分の主人の名前を知っているのか、私は不信に思いました。
「私、駅前のフラワーショップの酒井と申します。こちらにお住まいの伊崎伸晃さんから花束の注文を受けていたんですが・・・。」
そう言うと、女性はガーベラの花束を私の目の前に差し出しました。
「一週間くらい前にお店に受け取りにくるように注文が入ってたんですが、なかなかお店にいらっしゃらないので、ご自宅まで届けに参りました。」
「はぁ・・・?」
私は訳がわからないまま、女性からガーベラの花束を受け取りました。
「代金は以前ご主人がお店にいらした時に頂いているので結構です。」
「わざわざありがとうございます・・。
あの、うちの主人がそちらの花屋さんにお花を買いに行ったんですか・・?」
「そうですよ!」
笑顔で返答する女性が信じられませんでした。
あの人が花・・?
信じられない、今まで四十年間見てきた中で、あの人の人生に花を買うなんて場面は一切想像できませんでした。
一体なぜ・・・?
目の前の女性が嘘を付いているようには見えない・・。
だとしたら、まさか、浮気?
だったら納得がいく。今まで妻である私には“ありがとう”の一言もなかったくせに、わざわざこんな花束を贈るような可愛い愛人が居たんだわ、きっと・・・。
なんて、人なの・・・!!
「ご主人奥様想いなんですね~。」
あれこれと想像し、激昂している私に女性は耳を疑いたくなるような言葉を言いました。
「・・え・・?」
「その花束、奥様との結婚記念日に贈るんだって、顔を赤らめながら言ってましたよ。今まで一度も何も奥様にプレゼントなんてしたことなかったけど、今年はお互いに還暦だから何か贈ってあげようと思ったって。」
私は茫然と女性の話を聞いていました。
「花束にメッセージカードも入っているので、ぜひ読んでみて下さいね。ご主人、今まで奥様にお手紙書いたこと一度もないって言ってたので、せっかくだからってメッセージカードもお渡ししたんです。」
自身の抱えている花束に目をやると、確かに中にピンク色の封筒が入っていました。
あの人からは全く想像できない可愛らしい封筒でした。
「とっても素敵なご夫婦で羨ましいです。ご主人にもよろしくお伝え下さい。」
女性が帰った後、私はまだこの事実が信じられませんでした。
あの人が結婚記念日に花束・・・?
今までプレゼントひとつしたことのない、あの人が・・・。
私は疑いが晴れぬまま、可愛らしい封筒に入っている手紙を開きました。
手紙はたった二行しか書かれていませんでした。
順子へ
今までありがとう。
これからもよろしく。
伊崎伸晃
たった二行・・・。
それなのに、私の瞳からは涙が溢れてきました。
「今更、なんでこんな手紙贈るのよ。」
私はあの人が亡くなってから、初めて泣きました。
この手紙に書かれた文字は、確かにあの人の文字だった。
お世辞にも上手いとは言えない、癖のある字・・・。
今まで、プレゼントも
“ありがとう”の一言もなかったくせに・・・。
死んでからこんな風にプレゼントするなんて・・・。
私は主人から貰った手紙を握りしめて泣きました。
声にならない声を上げながら・・・。
あの人は確かに私を愛してくれていた。
思えばいつもそうでした。
決して口では言わないけれど、あの人はいつだってわたしのことを支えてくれていたのだと・・・。
もう二度と会えなくなってから、気づかされたのです。
遺影の中の主人はやっぱり仏頂面で・・。
でも、温かい眼差しで私を見つめていました。
終わり
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