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しばらく、黙り込む。
「……なに?」
ぼくも立ち止まって、問いかける。
「引っ越しても、私のこと覚えていてくれる?」
彼女は海に向かって呟くようにそう言った。誰もいない雨上がりの水平線は、驚くほど、美しかった。
「当たり前さ!……幸せに、なってほしいよ。親父さんもきっと、そう願ってる」
僕は、精一杯の餞を送った。
「この海岸は?」海の方を向いたまま、続ける。「この海岸は、名前をつけなかったの?」
そう聞いた時、一陣の強い風がびゅう、と二人の間を通り抜けた。僕らを繋いでいた絆を断ち切ろうとするほどの強い風で、麦わら帽子は空高く宙を舞った。僕がその行方を目で追おうとした瞬間、彼女がこちらに向き直った。そして突然、駆け寄ったかと思うと、力一杯に僕を抱きしめた。
「秘密の海岸」
彼女は、静かに涙声でそう言った。泣き顔を見るのは、七年ぶりだった。
「忘れないでね」
(……私を)
彼女の最後の言葉は、そう付け足したかったのだろうか。
二人の想いと一緒に波にさらわれそうになった帽子を手に取ると、呆然と立ち尽くす僕をほったらかしにして、彼女はそのまま振り返ることなく去って行ってしまった。僕は、しばらく無言のままそれを見送るしかなかった。
「勝手だな、最後まで」
彼女が見えなくなりそうになると、泣き止んだ空に免じて、僕は涙も流さずそうつぶやいた。不思議と、心の中ですぅっと風通しが良くなるのを感じながら。
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