アジの開きと自家製塩辛の後で

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 握っていた手を離され、胸の奥を冷たいものが流れた。ますます顔を上げることができなくて、友里はただ爪先を見つめた。 「俺はね、友里に引き合わせてくれたのは早川さんだと思ってる。烏滸がましいかもしれないけど、俺が早川さんのお眼鏡にかなう男だったから、だから友里に会わせてくれたんだと思う」  一度離れた青木の手が、再び友里に触れた。友里は、反射的に顔を上げた。 「これから行くホテルさ、部屋から海が見えるんだよ。もちろん、レストランからも」  いつもと変わらない包むような笑顔を浮かべる青木は、しきりにジャケットのポケットの中を探っていた。 「砂浜でなく、ゴロゴロと石がたくさん転がる海岸というのは、予定外だけど。これも運命かな」  青木は左手で友里の左手を取ると、優しく握った。 「結婚しよう、友里。二人で、いやこの先増える家族と共に、早川さんの分も幸せになろう」  友里の左の薬指に、晴れ渡る青空から星が一つ落ちてきた。 「早川さんの手紙も指輪も処分する必要はないよ。友里が気の済むまで手元に置いておいたらいい。きっとこれは、友里を守ってくれるよ」  太陽の光を受けて煌めく星が、滲みぼやけていった。 「……私の気持ちはとっくにけじめがついていたの。青木くんに会ったあの夜から、私の心の中は青木くんでいっぱいだった」  天気雨のような雫が、友里の手の甲に落ちた。磯遊びをしていた家族は、いつの間にか引き上げたようで、海岸には波音だけが流れていた。 「青木くんへの建前として、宏樹からのものを処分しようと思った。こっそり一人で捨てればいいのに、あえて青木くんの前でやろうと思った。狡いのよ、卑怯なの。私の中には誠実の欠片もなかった。青木くんにもっと愛されたいと、自分のことしか考えてなかった」  言葉が溢れるたび、無意識に青木の手を握る力が強くなった。 「私には、青木くんと結婚する資格なんてない」  絞り出すように吐き出すと、友里は漏れそうな嗚咽を堪えた。
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