眠り姫はエリート王子に恋をする

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 冬夜が目覚めると、そこにはすでに見慣れてしまった光景が広がっていた。  全体にピンクをあしらったかわいらしい空間の中に、所狭しと林立するロッカー。  言わずと知れたKカンパニー営業フロアの女子更衣室。男子禁制の秘密の小部屋だ。    ああ、またやったんだ、と額を押さえながらゆっくりと体を起こすと、胸元からスルリと上掛けが落ちていく。  いや、上掛けではない。  スーツの上着だ。  色合いからいって、冬夜のものではないようだが。  体を起こした拍子に落としてしまった誰かの上着を拾い、寝かされていたピンクのソファに座りなおしてペロリとそれを目の前に広げる。  名前など書かれていないが、誰のものなのかは一目瞭然だった。  この大きさと、このブランドタグ。  このブランドのスーツを好んで着ているのは、本社営業部でも有名な、あの男しかいない。  冬夜の頭の中に、男の顔とプロフィールが浮かび上がる。  藤堂隆一。27歳。独身。  身長187センチ、体重は不明。  顔良し、頭良し、性格良し。おまけに仕事も出来る完璧な男。    冬夜が主任昇格で事業部から本社第一営業部への異動が決まった時、補佐の女性社員が「藤堂さんがいる所に配属なんて、瀬川さんがうらやましい」と騒いでいたのを覚えている。  同じ防衛関係を扱う部署だったせいで、藤堂は冬夜のいた事業部へ顔を出すことが多かった。  その為、お茶を出す機会があった女性社員たちは、全員が藤堂の事を見知っていた。  本社第一営業部の王子様(プリンス)。  事業部の女性社員たちは、藤堂をそう呼んでいる。  それを聞いた時は、今時王子様呼びだなんてどうかしている、と笑ったものだが、実際に異動になり挨拶を交わした時、並ぶ異動メンバーの中では冬夜が真っ先に、「ホントに王子様みたいな奴っているんだ」とぽかんと口を開いて間抜け顔を晒してしまった。    藤堂は、王子様というイメージがぴったりとくる姿形をしている。  育ちの好さそうな顔立ちは男性らしいフォルムであるのに美しく整い、それをさらに輝かせるような爽やかさに加えて、その所作には嫌味な所がひとつも見当たらない。  そしてトドメのように、声がものすごくイイ。  腰にくるバリトンボイスで「ありがとう」とお礼を言われたお茶当番の女性社員は、その場で倒れそうになったとかならなかったとか。 「これ、返さなきゃ」  おそらく藤堂が、気を失っている冬夜を気遣って上着をブランケット代わりにかけてくれたのだろう。  時計を見れば、すでに定時が近い。  仕事熱心な藤堂はどうせ残業するだろうが、それでも、上着を抱え込まれていたら帰宅したくともできないだろうに。  優しい一面を見せる藤堂を思い浮かべて微笑みながら、冬夜はソファからゆっくりと立ち上がった。  眩暈はしないし体のどこも痛くないので、今回も藤堂が自分をうまく支えたのだと思う。  気を失う直前に、藤堂に後ろから抱え込まれた所までは覚えている。  意識を失くした冬夜をここに運んだのも、おそらく藤堂だろう。  藤堂に抱いて運ばれる自分を想像し、恥ずかしさに「わーっ」と激しく頭を振れば、途端に視界がくらりと回り始めた。  気絶したばかりなのに、頭に衝撃を加えるものではない。  目を閉じてゆっくりと数を数えながら、ぐるぐる回る世界に引き込まれそうになるのを必死にこらえていると、更衣室のドアががちゃりと開く音が聞こえた。  マズイ。ぐるぐると考えているうちに、定時を過ぎてしまったのだろうか。  だとするば、今からここには女性の大群が押し寄せてくる。 「瀬川主任?気が付かれましたかぁ?」  ロッカーの向こうからひょい、と顔を覗かせたのは、冬夜つきのアシスタントである伊藤だった。  やってきたのが良く知る彼女だけだったことに、冬夜は胸をほっと撫で下ろす。 「あ、起きてる。よかったぁ。心配したんですよぅ?なかなか目を覚まさないから、病院へ連れて行った方がいいんじゃないかって藤堂さんが……」  ちょこちょこと冬夜に歩み寄る伊藤はとても小柄で、小動物のような愛らしい外見をしている。  小さな彼女が小首をかしげながら自分を心配するのをくすぐったく思い、冬夜はほんのりと唇の端に笑みを浮かべる。 「大丈夫。最近ちょっと寝不足で……気を失ったついでにぐっすり眠っちゃったみたいだ」  心配かけてごめん、と謝ると、それならいいんですけど、と伊藤が安心したようにかわいらしい笑顔を浮かべた。 「でもぉ……瀬川主任の寝不足の原因を作ってるのは、あの使えない新人くんですよね?」  むぅ、と顔を顰める伊藤を「こら!」と叱ってやると、えへへ、と肩をすくめる。 「成長途中なんだよ。新人なんだから、まだまだこれからだよ」  仲間なのだからなんとか仲良くして欲しいという思いでフォローを入れると、「でも、配属されてからかれこれ4カ月ですよぅ?ちっとも育ってませんよ、彼」と伊藤が口を尖らせた。    そうなのだ。  本当に、なんというか、今時の若者は……と思わず言いたくなるような。  ゆとり世代にさとり世代の悪影響なのだろうか。  いや、ゆとり世代といえば、藤堂や自分もそれにあたると思うので、小沢のあれはゆとりさとり以前の、本人の資質の問題のように思う。 「だいたい、瀬川主任に『眠り姫』ってあだ名がついちゃったのも、あの新人くんのせいじゃないですかぁ」  あいつが来る前は、瀬川主任が倒れる所なんて一度も見ませんでしたよ?と嫌そうに伊藤がつぶやく。  4月に内示が下り、引継ぎを終えて冬夜が着任したのがGW直後。  それからしばらくは、第一営業部には平穏な空気が流れていた。  6月。新入社員を受け持つことになり、第一営業部には珍しい増員に、部のメンバーは皆、期待に胸を膨らませていた。  全社でトップの売り上げを誇る第一営業部は、あちこちの営業や事業部から「出来る」人間を引っこ抜いて作られた、いわゆるエリート集団だ。  滅多なことで増員はなく、新人を受け入れることもまずないと言っても過言ではない。  そんなところに配属の決まった新入社員であるので、どれだけの切れ者がやってくるのかと、皆一様に期待していたのだが……。  部下の小沢の顔を思い浮かべ、冬夜は深々と重い息を吐きだすしかなかった。    自分に不本意なあだ名がついたのは、小沢のせい。  そう言いたいところだが、そもそも特異な体質の自分が悪いのだし、そんなことまで部下のせいにするほど冬夜の心は狭くない。    冬夜は、興奮状態に陥った感情が本人の限界値を突破すると意識を失ってしまうという、いわゆる気絶癖の持ち主だ。  幼い頃は、たびたび倒れる息子を心配した両親に連れられて大きな病院を何度も廻ったものだが、特に脳に異常は見られず、「繊細な心を守るために、脳が自衛しているだけで心配ない」という見守りましょう的な診断を下されて終わった。  つまり、原因は不明。  成長するにつれて感情を爆発させるような出来事も少なくなり、気を失うような事態に陥ることはなくなっていたのだが、この年になってよもや再発するとは思わなかった。しかもこんなに頻繁に。    本社(ここ)で初めて倒れたのは、7月中旬頃。  冬夜は異動後初の大きな仕事を任され、極度の緊張を強いられていた。  心労と疲労が重なっているところに、毎日あれこれと何事かをやらかすくせに一向に反省する様子のない新入社員の態度に、冬夜の限界がやってきた。  ガツンと怒鳴った所で不意に意識が途切れたことだけは覚えている。  後から聞いた話によると、その時は誰も冬夜の気絶癖を知らなかったので、盛大に机と椅子に身体をぶつけて床にひっくり返っていったらしい。    初回こそ慌てた周囲の部員の手により病院送りになったものの、さすがはエリート集団の第一営業部。  冬夜が「気絶するのは体質なので、大事にしないで欲しい」とお願いしたこともあり、彼らはその事件を教訓に、2回目からは冬夜に監視係を付けるようになった。  新入社員が冬夜に叱責され始めると、アシスタントの伊藤がそれとなくついてきて様子を窺う。  これはマズイかも、という限界ラインに近づいて来ると、助けを呼んで冬夜を止めに入ることがいつの間にか決められていた。  興奮して感情のメーターが振り切れる寸前の冬夜をなだめるのは、今の所、直属の部下である藤堂の仕事だ。  大柄な彼に羽交い絞めにされると、身動きが取れなくなるので大人しくならざるを得ないし、低い声で頭上から「落ち着いて」と宥められて、そのままクールダウンできることもあった。  しかし大半は、止められて気が抜けた所で意識を失ってしまう。  そんなわけで、上司であるのに冬夜は藤堂には頭が上がらず、日頃迷惑をかけている申し訳なさから、彼の事をなんとなく苦手にしていた。  気を失い、藤堂に横抱きにされながら、唯一人を寝かせられるスペースのある女子更衣室に担ぎ込まれる冬夜に、「眠り姫」などという馬鹿げたあだ名がついたのも仕方のないことだと思う。  毎回ひっくり返るなさけない男には、からかい半分にそんなあだ名をつけたくもなるだろう。 「とにかく、ここを出ようか。あー、Y重工の田崎さんにお詫びに行かないといけなかったのに……」  新入社員の文句を言い続ける伊藤をなだめながら立ち上がり、自分がこれからやるべきことを頭の中で並べて整理していく。  気を失ってる場合じゃなかったのにな、と自分の失態を恨めしく思いながら身支度を整えている間に、伊藤が、更衣室のドアノブにかかっていた『眠り姫がお休み中です』という、ハート形にくりぬいたダンボールで作られた案内札を取り外していた。  本来ならば男子禁制である場所で寝ている冬夜の姿に、女性社員が驚かないように、との配慮から作られたらしいが、今やこのフロアの女性社員はソファで冬夜が寝ていても驚くことはないだろうと思う。  またか、と思うだけで。  それくらいの頻度で倒れている自覚は、重々に持ち合わせている。 「あのぅ、Y重工さんの件ですけど……」  営業部のフロアに戻る道すがら、伊藤がどう報告しようかと迷っているような様子を見せる。  新人くんがなにか又いらぬ事をやらかしたのではないかとヒヤリとするが、そうじゃない、と伊藤が首を振る。 「なにか問題?」  冬夜が首を傾げると、「いえぇ、えっと、そうではなくて……」と伊藤が言い淀んだ。 「あ、瀬川さん、よかった。気が付かれましたか?」  第一営業部の、開放されたままのドアをくぐろうとした時、中から出てきた相手にぶつかりそうになった。  慌てて避けたらふらついてしまい、後ろにひっくりかえりそうになったところを腕を掴まれて体を引き寄せられる。  引っ張られたはずみで顔をぶつけてしまい、いてて、と鼻を押さえると、「すみません、ひっぱりすぎました」と上から謝罪の声が降ってくる。  このバリトンボイスは、藤堂だ。  見上げれば、男らしい顔が心配そうにのぞき込んでいる。  どうやら冬夜は、藤堂の胸板に思い切り鼻をぶつけたらしかった。  この身長差がうらめしい。 「いや、こっちこそ。前見てなくて……。ごめん」  鼻をさすりながらそう言うと、藤堂は微かに笑う気配を見せ、掴んでいた腕をそっと離してくれた。
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