眠り姫はエリート王子に恋をする

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 客先から戻り、ホワイトボードに記入された予定を書き替えていると、衝立の向こうの打ち合わせスペースから、誰かが叱責を受けているらしい尖った声が漏れ聞こえてきた。  第一営業部ではすでに日課となりつつあるそれに、またか、と藤堂隆一はひそかにため息をつく。  声の主は、営業部の名物主任、瀬川冬夜であるに違いない。  戻った早々これなのかと眉間に皴をよせながら、隆一は乱暴に足を運んで自分のデスクに戻り、客先から差し戻された書類をバサバサと机の上に積み上げた。 「おかえりなさい、藤堂くん。丁度いいタイミングで戻ってきたわね」  営業アシスタントの鎌田が、美しい顔に思わせぶりな微笑みを浮かべながら、出来上がった書類を隆一に手渡す。  隆一とは同期にあたる鎌田は、社内では頼れるアシスタントであり、社外では付き合いやすい友人の一人でもある。  エリート集団と名高い本社第一営業部の中のトップアシスタント呼ばれるだけあって、仕事も早ければサポートも群を抜いている非常に優秀な人材で、そのうちスキルアップ研修を受けて営業に移る話も出ていると聞く。  そんな鎌田から受け取った書類に目を通している隆一の耳に突き刺さるかのように、衝立の向こうの声は次第にボリュームアップし、ついにはその内容が分かる音量にまでなった。  今日あいつが犯したミスは……  これまた頂けないな、と、隆一は再びため息をつく。  どうやら客先との約束をすっぽかしたらしい。しかもうっかりではなく、故意に。  瀬川があれほど怒るのも無理はない、と、聞き耳を立てていた部の全員が、気の毒そうに衝立の向こうの様子を窺っている。  今年採用された非常に使えない新入社員を、新人教育も主任の仕事の勉強になるから、という理由で瀬川の下につけた課長はというと、衝立の向こうを気にしながらも、他に仕事があるような素振りでパソコンに向かったり、無駄に電話をかけたりしている。  フォローに入るつもりは毛頭ないようだ。    隆一は高速でキーボードを叩きながら、そろそろ呼ばれる頃だろうな、と頭の片隅で考えていた。 「ハンコを打つ場所を間違えた」という非常にくだらない理由で客先から戻された書類をシュレッダーにかけ、保存してあったフォルダから探し出してもう一度プリントアウトする。  地味で単純な作業だが、面倒ではあるし手間もかかる。正直なぜ自分が?と思うような仕事もある。  しかし、それをやらずして営業を名乗る資格などない。  営業は、顧客にとっては小間使いのようなもの。  機嫌を損ねないよういいように使われているように見せかけ、しかし相手に悟られぬように巧妙で強引な手段で契約を進めていくのが、出来る営業マンというものだ。  契約の為なら、個人旅行の手配の相談にも乗ってやる。娘の進路の相談も受ける。嫁の誕生日プレゼントは何にしようかと言う愛妻家の客には、最近流りのあれこれを調べて教えてやる。  全ての感情を笑顔の仮面の下に押し隠し、ひたすら会社の業績に貢献する。  その営業マンが、客先との約束をすっぽかすなど天地がひっくり返ってもありえないことだ。そんなことをすれば、二度と相手の敷居を跨げなくなるのは目に見えている。  これから客先にお詫びに回るのであろう瀬川の苦労を思うと、自分のことでもないのに頭痛を覚え、隆一は指先でこめかみを軽く押さえた。  それだけのことをしているにも関わらず、事の重大さがわからないらしい新人はのらりくらりと言い訳を続け、対峙する瀬川が強い口調で叱責を繰り返していた。 「藤堂くん、そろそろ呼ばれるんじゃない?」  鎌田も同じことを考えていたようだ。  自分でもそろそろだろうと思っていたので、鎌田に軽く頷いて見せる。  視線を向ければ、衝立の向こうから、瀬川のアシスタントである伊藤がぴょこぴょこと顔を出してこちらを見ていた。  隆一と目が合ったとわかると、伊藤は腕を振り上げ、いつものサインを送ってくる。  H・E・L・P!!!  やれやれ、と首を傾けてコキコキと鳴らしながら、隆一はのそりと立ち上がる。  いってらっしゃい、と鎌田が見送るのに軽く手をあげ、長い足を持て余すように衝立に向かって歩いていくと、瀬川の厳しい叱責の声が、耳に痛い程に聞こえてきた。 「だから!書類ひとつぐらい、俺がいなくても客先に持っていけただろ?!場所もわかるし、おまえ用の入館証もすでに手元にある。俺、すぐに持っていくように指示したよな?」 「でも、本当にこの書類かどうか自信なかったんです」 「伊藤さんが作成して、わざわざおまえに手渡ししたのに?」 「伊藤さんが正しいかどうかなんてわかんないじゃないですか。間違った書類持って行って怒られるの、僕いやなんです」  衝立の向こうをひょいとのぞき込めば、叱責されている真っ最中だというのに姿勢悪くそっぽを向いてネクタイをいじりまわすメガネの新人と、小柄ではあるが背筋のスッと伸びた、上司である瀬川の後姿が見えた。  書類を持つ瀬川の細い指先が、ふるふると震えている。  これはまずい、と足を速め、衝立の向こうに滑り込むようにするのと、瀬川がまさに大声を上げようと、大きく息を吸い込むのがが同時だった。 「いい加減にし……っ!!」 「ストップ!瀬川さん!」  後ろから抱え込むようにして瀬川の口元を手で覆うと、手の中から「もがっ!」といううめき声が漏れた。  抱え込むように腰に回した腕を後ろに引けば、小柄な体はいとも簡単にたたらを踏んで、隆一の胸元に倒れこむ。 「怒鳴っちゃダメです。いくら腹が立っても、みんな仕事してますから、大声はダメ」  まあ、俺だったら怒鳴る前に拳で殴ってるかもしれないけどな、と思っていることは心の奥に隠し、「しーっ」となだめるように囁きながら、強引に新人から引き離す。  何食べて生きてるんだ?と思うぐらい細い体は、隆一に引きずられてあっさりとそこから後退した。  瀬川に大きな雷を落とされそうに新人は、ひっと顔を引きつらせながらも、未遂に終わったと知るや否やあからさまにホッとした後、顔を歪めて忌々しそうに舌打ちをしてみせる。  上司と先輩に向かってその態度はどういうことだ、とかなりムッとしたものの、隆一はありったけの理性でそれを抑え込んだ。 「小沢おまえ、いい加減にしろよ。なぜ申し訳ありませんの一言が素直に言えないんだ?」  余計なお世話かとも思ったが瀬川の援護に加わると、「はぁ?僕が悪いんですか?出来ないことを上司にふられて、相談できる人もいなくて困ってただけなのに、なんで僕が怒られるんですか?」と、僕はちっとも悪くないですアピールをされた。  ぴきんと音を立てて、隆一の表情筋が凍り付く。  一体どこの誰がこいつを、泣く子も黙る大企業であるKカンパニーに採用したのか。  人事部の担当者を今すぐこの場に引きずり出してやりたい程に、隆一は腹を立てていた。  いくら縁故入社でも、入れていい奴と悪い奴の違いぐらいわからないのだろか。  やりたくないことと出来ない事を混同するようなお子ちゃまに、エリート集団であるこの第一営業部に席を置く資格はないのだ。世間はそこまで甘くない。    隆一のこめかみに青筋が立ち、瀬川の激高を止めた事は傍らに押しやって、やはりここはガツンと一発お灸をすえておくべきか?と思い直した瞬間、「あのぅ、藤堂さん……」と、瀬川付きのアシスタントの伊藤のためらいがちな声が聞こえた。 「なに?」  止めるな伊藤、と言いかけたが、彼女の困り顔を見てその言葉を引っ込める。 「そのぅ……、主任、がぁ……」 「え?」  伊藤が指さした先は、隆一の腕の中。    そこには、「眠り姫」の通り名を持つ、この営業フロアでトップの美貌と営業成績を誇る瀬川冬夜が、長い睫毛を伏せ、気を失ってぐったりと隆一にもたれ掛かっていた。
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