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 学食で昼食を済ませた仁科は自動販売機の前でささやかな食後の口慣らしに缶コーヒーを買った。鈍い金属音が響いた取り出し口から缶コーヒーを取り出そうとすると「しけてるのね」と言われて振り返れば衣川真美が立っていた。仁科は肩にカメラを掛けていた。 「郊外にあるこの大学の近辺には美味(うま)いセルフのコーヒー店が無いからね」  確かに唯一ある近くの喫茶店では一杯の珈琲が学食の定食より高かった。 「講義のない昼からカメラ担いで何処へ行くの? あてがなければ岩佐先生が珈琲を奢ってくれるそうよ」 「先生が、そんな有り得ない? 有り得ない事をするという事は何か下心がありそうだな。学生と同じで先生は土岐承子さんを口説きに行くのじゃないでしょうね」 「まさか、新婚の先生が? 」 「真美ちゃんも見ただろう土岐承子さんを、彼女は十分に乗り換える器量ですよ」 「見た目だけでどうかなあ、第一に山本さんの提案を直ぐに受け容れるなんて初対面なら遠慮ってもんがあるはずよ。そんな女に何を考えてんの、先生より仁科くんが感染したんじゃないのうちの学生どもに充満している野次馬病に……」 「そんな伝染病があったけ、もしあるとすればそれはきっと夢遊病者だ」 「話に乗ってくれるのはいいけどあたしの冗談にそんなに難しく考えなくてもいいでしょう」 「それもそうだ現実に戻そうそれで珈琲の代価は何なの」 「例のお寺に行くんだけど二人誘われてるの」 「やっぱりそうか、で、先生が他に二人と云うことは俺もか」 「嫌なの」 「真美ちゃんのデートの誘いを断る理由なんてどこにもないよ」  もっともだ。この春に入学して校門の前で真っ先に部活の勧誘を受けたのが彼女の居る歴史研究サークルだった。連休には近辺の城跡を巡ってスッカリ一員になりきれたばかりだ。 「うぬぼれないでよあたしが誘ったんじゃないから岩佐先生があの寺男に抗体が出来ているのは仁科くんだけだからって言うの」  抗体! あいつは何のウィルスなんだ! しかし購入ボタンを押す前に声かけをしてくれなかっとぼやいてもしゃあないかと缶コーヒーを鞄にしまった。   *  大学の直ぐ傍にあるこの喫茶店は珈琲通を唸らせる一品を出す店だった。だから本場の珈琲を味わえる教授連には受けていて学生は全く見掛けないからいつも空いてる。その一角を岩佐先生は占拠していた。 「やあ来てくれたかさっそくここのマスターが腕によりを掛けた特上品の珈琲を飲ませてやるよ」  いやに張り切ってるなあ余程にあの寺男の噂が響いてるのか。そうなると短期間で飼い慣らしたあの土岐承子さんは凄い猛獣使いになるのかなあ。  マスターは注文を受けてから豆を挽いて熱湯で蒸すように淹れてゆくと香ばしい香りが鼻腔に注がれた。 「どうだインスタントに慣れた者には格別の匂いだろう」  先生はまず香りを味わってから出された珈琲に一口入れた。 「ところで呼び出された用件をまだ伺ってませんが」  仁科は飲む前に訊いた。 「まあ先に一口飲みたまえ、別に飲んだからって君には十分に拒否権はあるんだから心配は無用だっ」  隣の真美はすでに飲み出していた。二人はグルか。そう云えば先生は女子は非木川より真美ちゃんの方を可愛がってるなあ。今日彼女を使ったそれ自体ですでに俺の拒否権を薄弱にしている、いやそれどころかあの入学時の勧誘に似た強引さが目立つ。 「仁科くんは土岐承子さんには気に入られてるらしいね、それも寺男に気付かれないようにお膳立てしたのはわしだよ」  嘘つけ! 彼女の名前も知らなかったくせに。あの日は道に迷わず寺に行ったら叩き出されてる所だったのに。まあ今更文句を言っても仕方がないか。 「ところで仁科くんはサークルに入った以上は歴史には興味あるんだろうゴールデンウィークには幾つかの城址を廻ったが何処が良かった」 「竹田城はやはり廃墟の方が栄華を偲べていいですね」 「だったら安土城の方が良かったでしょう」と真美は赤松氏が城主だった竹田城より織田信長の城が規模や風格がダントツだと言い張った。  ーー交易で莫大な利益が上がる良い港を持ったお陰で地の利が良かっただけやと仁科が言った。  ーー津島の港は父の信秀が手に入れたものでその恩恵は受けたけど。それを飛躍発展させて尾張を豊かにして領地を拡大させたと真美が反論した。 「おいおい二人とも何を言ってるんだ此処は教室じゃないんだぞ議論はそれぐらいにしといて寺へ挨拶するために仁科君をここへ呼んだのだろう」  ああ、そうだっけここで歴史談義をしている場合じゃないと真美は岩佐先生を土岐承子さんに引き合わせてあげてと仁科にせがんだ。 「何で、ぼくは先生の紹介で土岐承子さんに会ったのにその先生が今度は逆に引き合わせてくれなんて可怪(おか)しいです」 「そんな屁理屈を並べてないでどうなのよ」 「これは屁理屈じゃない正論だ」  と二人はまたまた揉めだした。 ついに先生は「お前らいい加減にしろ」とグウの音も言わさず寺に向かった。
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