序章1

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序章1

 仁科明宏(にしなあきひろ)は歴史研究会と云う大学のサークルに所属していた。最近このサークルの顧問がにわかに漢方薬が医学の未発達な昔に於いての活路を探究すると言い出した。まったく気まぐれな先生である。その一環としてサークルの顧問は薬草が採れる寺へ仁科に指定した薬草を採りに行かせた。   場所はサークルの顧問である岩佐(いわさ)先生から聞いたように小高い丘になってる裏山の北方寺(きたかたじ)だった。この寺は岩佐先生の親戚筋が住職だった。それが最近になって住職が交代したのだ。代わった住職は女だと云う以外は何も聴いていない、いや聴かされていない。そんな先代のいい加減な住職に今更ながら聞きに行くのが癪に障った。そこでサークル内で暇な奴を見付けた。次の部活で薬草を使うと云うのは口実で本心は新たな住職を見届けに仁科に行かせた。そうとは知らずに彼は薬草を採りに寺へ向かった。  この街は昔は碁盤の目状に市電が走っていた。そこから外れると、東京で言えば山手線、大阪なら環状線の枠内からその寺は大きくはみ出した所だ。  この街はこの二大都市に比べると三方を山に囲まれていた。だからその枠内からはみ出すともう山が迫ってくる。北方寺はその山の裾野をひとつ越した少し開けた場所にあった。その開けた所の北側にある山のふもとに在った。その先はもう奥深い丹波の山々が若狭(わかさ)まで連なっていた。そのふもとから北へ続く小道を歩き出した。その路は前方の山並みに続いていた。  岩佐さんの話だと途中から道が分かれるからまっすぐ行くなと云われた。仁科はそれを実行して分かれ道で右にそれる道を迷い無く決めた。仁科は歩き続けると行き過ぎたらしく北方寺の裏山に続く丘に出た。これが岩佐の言っていた薬草の宝庫と噂される山だった。だがこの山は厳しい立ち入り制限を設けていた。それを聞いて無い仁科は苦も無くその丘に覆われた山林に分け入ってしまた。  小道の向こうにはサークルで憶えた薬草が生い茂っていた。珍しい見覚えの有る薬草を手に取って小道を歩きながら嗅いでみると奇妙な臭いだった。舌を付けると舌の先が微妙に刺激された。 「それは恋煩いの薬ですよだからまだ恋をしていない人には効果はありませんよ」  声のする方角へ振り向くと小道には長い髪をひっつめにして、桔梗の柄を施した薄紫の小袖の女性が立って居た。  少し舌先が震えたと言うとそれは見込違いだった。と訂正してしかも片思いだと女は云った。  仁科は不思議な顔で女を見た。良く整った顔立ちでその能面のような切れ長の目許が笑うとえもいわれぬ美しさが浮かび上がった。 「仁科さんですのね」  突然の指名に彼は舞い上がった。 「どうしてぼくの名前を ?」 「岩佐さんから伺いました。来れば案内をしてやって欲しいと」  先ほど舞い上がった心が「何だそう云う事か」と意気消沈してどん底に沈み込んだが彼女の笑顔でなんとか這い上がった。 「どうして判ったのですか ?」 「奥の離れの部屋から見える景色が風光明媚な物ですからそこで写経をしているとお寺の窓から裏山に続く道がよく見えるのですよ」  寺の裏手に当たり此処は丘のように盛り上がった茂みに覆われてこの場所からもその途中からも部屋は見えなかった。 「あの分かれ道で寺の方に向かっていると判りましたからこうしてお迎えに参りました」  そもそもこの寺自体が木々に囲まれて表の道からも見えにくいが寺側からは木々の間からは良く見えるらしい。 「その着物姿で ?」 「ええ、普段から着こなしておりますから別段不自由はありません」  なるほど見れば着物が時代にタイムスリップしたように普段着並みに見事に着こなしていた。 「お目当ての薬草は見つかりましたか ?」  彼は岩佐さんから聴いた薬草を言った。女は小道を先導して生い茂る草の中からその薬草を指し示した。 「ゴメンナサイいつもなら寺男の椹木(さわらぎ)に指図して採って貰っていましたから」  とその男の代わりに仁科に採りに行かせた。仁科も彼女の着物の裾を見てこの草むらでは無理だと納得した。予定の薬草の採り終えると女は草地から雑木林に向かった。林を抜けると直ぐに築地塀に当たって行き止まりかと思うと女は塀に沿って歩いた。そこに人一人が通れるほどの木戸が設けてあった。女は器用にかんぬきを外して木戸をくぐり抜けた。中は裏庭で「あそこは裏木戸ですが一般の人は通れませんから」と念を押した。そして「今度いらっしゃるときは必ず表の玄関から来て下さい」と付け足した。  どうやらあの裏山は事前に予約のない人は立ち入り制限をもうけてあるらしい。 「だから貴方はラッキーなのよあたしが見付けてあげたからそうでなければ今頃は椹木に叩き出されていたのよ」
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