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寺に戻ったときに裏木戸に続く空き地で薪を割っている大男を見掛けた。あの男に一発食らったら骨が折られてしまいそうでぞっとした。
女に案内されて座敷に上げてもらってくつろぐように勧められた。その間に彼女は薬草を束にして紙袋に入れ直して仁科の傍にどうぞと置いた。
そこへ薪割りの大男が突然に襖を開けて急須と湯飲み茶碗とポットを持って現れたから心臓が止まりそうになった。
「椹木は見た目はあのような者だけど見知った人には心根はいい人ですからあたしからその様に説明しておきますから次からは安心していらっしゃい」
部屋を出しなに聴いていた男の表情が緩んだが恐怖は残っていた。だが女は顔色一つ変えずに男に指図していた。あの男は先代の住職からこの寺に使えているらしい。でもこの女は代替わりして日も浅いのにどの様に引き継ぎをしたのだろう。それを訊くと「猛獣じゃないんですから先ほども言ったように心根のいいひとですから」と復唱された。そう何度も言われても信じがたい風貌をあの男は持ち合わせていた。
「あのう、名前をまだ伺ってないんですけど」
「誰の ?」
「貴方の」
彼女は此の人誰って不思議そうに仁科の頭のてっぺんからからひざの先まで視線を流した。
「別にそれほど怪しい者じゃないんですけど……」
「岩佐さんからご紹介されたのでしょう、それならあたしの名前の事も……」
「ええ、でもお名前は訊いてませんでした」
「あらそうなのそれは失礼」
と彼女は小袖の裾で口元を覆ってから和紙で作られた名刺を差し出した。
貰った名刺には毛筆で北方寺住職・土岐承子と書かれていた
「ウッ ? 住職 ? この人が ? ……あのうこれは俗名ですね戒名はないんですか」
「有りませんそれで呼んで下さい」
「でもお寺の住職でしたら厳しい修行をして得度を積まれてた暁には戒名を授かるんではないでしょうか」
「そう云う制度もありますが私の場合は飛び級ですものだからツベコベ聴かないで下さい」
なぜこの寺は檀家が少ないのか、それを増やすために宗派の本家は土岐承子を派遣したいわゆる彼女はこの寺の救世主だった。
ハァ ? 学業の制度には在るが僧侶の修行にそんなアリか、分からんなりにもこのシステムに疎い彼は受け容れて仕舞った。
「あのう小高い丘のような裏山に自生している薬草ですけれど昔からありましたっけこんな都会に近い所にあれほど自生しているなんて知りませんでした」
「それもそのはずです。裏の雑木林ですけれどあそこは先代の住職よりずっとず〜と以前、そうねえ四百年でしょうか、その頃から立ち入り禁止ですから」
「よ、四百ねん、で、すか」
「そうよ此処はそれほど由緒ある寺ですから。でもこの千年の街では新参者でしょうか。あっ、訊くのを忘れてましたけど仁科さんあなたどこからあの薬草園に分け入ったのですか」
あれが園と呼べる代物だろうか、第一に何処にも囲いもない。まして入り口らしきものもなかった。ただ雑草や下草が生い茂る雑木から続く丘にしか見えない。とても園としての手入れはされていない。それを見透かしたように彼女は付け加えた。
「手入れが行き届かない場所のように見えてもそもそも薬草は自然に自生するものを上としますからその様に見えても仕方がないのでしょうねでも次からはしっかり見極めて入らして下さいね」
ここで彼女からお灸をすえられるとその切れ長の目が一層美しさを際立たせた。
「あのう……」
「薬草を採りに来られてもうお渡ししました他に何か御用ですか」
「先ほど指摘された片思いの解る薬草ってどれですか」
仁科はもらった物の中に入っていないか尋ねた。
承子は小袖で口を覆って笑った。
「解ってどうするつもりです」
そう指摘されても仁科には秘策を持ち合わせていない。またそんなものがあれば聞く必要も無かった。それを承子は手の内で操るように説教を始めた。
「そんな物は相手に振り向かせれば良いのですからあなた次第です。だから自信を持てばいいだけであなたには必要ありません。それよりはその年頃でそんな薬よりしっかりと相手に対する情熱を持っていればご心配は入りませんから」
「それで安心しました。さっき会ったばかりで片思いどころか相手の存在までは解るはずがないでしょうからね」
と彼は小馬鹿にしたように薄笑いを浮かべて帰ろうとすると、どう気に障ったか承子は彼を引き留めて意味ありげな薄笑いを浮かべた。
「お相手は同じサークルに居る人ですのね」
と言いながら彼女の表情は氷の微笑に変わった。
この妖しい微笑に、此の人一体何者? と一瞬全身がフリーズすると次に仁科は背中をゾクッとさせて悪寒が走った。
ーーどおされましたと優しい言葉とともに仁科の持つ薬草の束からひとつ取り出した。
「これを煎じて飲めば一遍に顔色が良くなるから一寸待ってらっしゃい」
と奥から同じ薬草を煎じて持って来た。
「どうぞ召し上がれ」
土岐承子の意味ありげな微笑みの中で勧められた飲み物に彼が躊躇すると別に可怪しな物は入ってませんからご安心なさい。と際立つ最上の美しい微笑みを添えられると、もう仁科に拒む意志は何処にも存在してなかった。こうなればやけくそと毒喰らば皿までと飲み干した。すると胸の奥から込み上げてきた温かみで一気に不安を消し去って心地良くなった。
「顔色が良くなってよかったわね」
と土岐承子は安堵して見送ってくれた。
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