不動

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不動

黒田は必要なことをすべて言い終えると、床の鞄を拾い上げた。これから隣室の大広間へ行って、湯浅と合流する。トクホの応援がここに到着するのを待つか、院長と被害者達を連れて階段を上り、外で待つ警察に保護してもらうかの相談をすることになるだろう。 「二海さん、隣の部屋へ移動します。自分で歩けますか」 院長は左足のふくらはぎをさすりながら、彼を見上げてきた。無言で痛みを訴えているらしい。 「進んで協力してもらえれば、これを使わずに済みます」 黒田が鞄から取り出したのは、手錠であった。 一見するとシンプルな金属製のリングブレスレットで、鍵穴はない。手首を通すと対象者の皮膚に密着する程度に締まるため、怪我や骨折を伴わずに切断用の工具を差し込むことはできない構造になっている。内部にGPSや携帯電波、非接触型ICも内蔵されているので、逃走されても犯人の居場所は瞬時に特定可能だ。両手を同時に通せば拘束具としても機能するが、通常の使用目的では片方で十分だとされている。 二海は光沢のある金属面を興味深そうに覗き込んだが、手錠だと分かると目を背けた。 「それ、しまって。自分で歩けるから」 意図的に左足をかばう動作でゆっくりと立ち上がり、彼の手を押しのけるような仕草をする。 争ったり逃走したりする気を無くした相手に、使う気はなかった。すでに警察が建物を取り巻く時間になっているし、そろそろトクホの応援も到着するはずだ。手錠を見せたのは、ただの脅しである。 左足が痛むと訴えたいのか、彼女は意図的にゆっくりと立ち上がった。手を貸そうと近寄ると、怒りをあらわにして彼を押し返し、足を引きずりながら隣の部屋へ向かう。 黒田はすばやく隠し扉の内側を覗き込んだ。イヤホンからの明かりで照らされたのは奥行き1メートル半くらい、幅30センチ弱の狭い入り口通路と、その奥にある半畳ほどの空間だった。二度と犯人が逃げ込んだりしないように、内側にあるはずのボタンを探して閉じておくか、物理的に塞いでおくかしたいところだ。 「ドアを閉じればいいの」 突然の出来事に、あわてて飛び退くところだった。白い服の少女がいつの間にか黒田の横に来て、手元を見ている。本当に少女が話し掛けてきたのか。彼は自分の耳を疑いつつも、首を縦に振った。
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