26人が本棚に入れています
本棚に追加
100畳近い大広間の中央やや階段寄りに、湯浅は膝をついて立っている。白い服の少女は自分から湯浅に近付いて行って、何か話しかけていたようだ。薄物を着た3人の女性達は突然の動きに怯えたのか、少女の足下にうずくまっている。
黒田は自分の直感を無視し、さらに佐伯の依頼を速やかに実行しなかったことを悔やんでいた。挙げ句の果てに、目を離した隙に少女が移動して、予想だにしない事態が起きている。
湯浅の状態が尋常ではない。今や両手を力無く下ろして、口を半開きにしたまま少女の顔を見つめている。上司の吊り上った眉の下で、いつもはするどく細められている目が見開かれていた。顔に浮かんでいるのは戸惑いか驚きか。いや、恐怖だろうか。ふだん人前では面に出さない、激しく急な心の動きを表しているようであった。
「湯浅さん」
黒田は問いを発したが、湯浅の耳に届かないようだ。
「湯浅さんっ」
今度は声を限りに叫んだが、少女達が驚いてこちらを見ただけだった。上司は2度目の呼び掛けにも答えない。遠目だが、口元の筋肉が緊張していて、激しく動揺していることが見て取れた。上体はかすかに前後に揺れているようだ。
黒田は今にも駆け出しそうな自分を懸命に押し留めていた。もし湯浅が突発性機能喪失に陥っているのなら、遠くから声を掛けるだけでは回復させることは難しい。それでも今、彼の持ち場である院長の側を離れるわけにはいかなかった。
「黒田から見て、どうだ? 機能喪失か」
佐伯の声はいつもより高く、微かに震えていた。
「おそらく。でも理由が分かりません」
「詳しく話している時間はない。白い服の女の子だ。彼女は湯浅さんの心的外傷なんだよ」
「フラッシュバックを起こしている、ということですか」
にわかには信じ難い。泣く子も黙る不動の湯浅と呼ばれたほどの男に、機能喪失を引き起こさせるほどの心的外傷が存在し得るとは思えなかった。
「誰にだって、人に言えない傷の一つや二つはあるよ。私や湯浅さんのように長くこの世界に関わっていれば、尚更だ」
「どうしましょう。近くへ行った方がいいでしょうか」
「現場にいるトクホは君と湯浅さんだけだ。黒田、君が指揮監督するんだ」
湯浅が指揮を執れなくなった今、彼ひとりで状況を把握し、考え、決断、実行しなければならないのだ。佐伯に相談することは可能だが、頼ることは出来ない。
「現場の責任者は、僕ですか」
彼は突然、孤独を感じた。
最初のコメントを投稿しよう!