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魔弾
体当たりでぶつかるつもりの勢いで、黒田は上司の目の前に立った。二の腕が当たり、白い服の少女がよろける。彼の口が反射的に、「ごめんね」と動く。少女は黙って首を横に振ったが、後できちんと謝らなくてはいけないだろう。
「湯浅さん」
少女達を驚かさない程度の声で呼びかけを行った。反応を待つ。
二海院長が絨毯の毛を掴んで手繰り寄せるようにして、奥へ向かう様子が目に映った。とても才色兼備の美人女医といった風情ではない。なりふり構わない野郎の足掻きにしか見えなかった。
「湯浅さんっ、緊急事態!」
今度は喉が裂けんばかりの声で名を呼んだが、相手が認識した様子はなかった。
「黒田、身体接触をして刺激を与えてくれ。引っ叩いても構わない」
呆然としている湯浅の両肘を、黒田は怒りを込めてぐっと掴んだ。湯浅はゆっくりと顔の正面を彼に向けた。黒田は顔を近づけ、上司の目を覗き込みながら口を動かす。
「院長が逃走します」
事実とは違う。本物の二海院長は今、塞がった鍵穴に鍵を差し込もうと奮闘中であり、直ちに扉を開けて逃げ出すことは不可能だ。だが事実関係はどうでもいい。湯浅に精神的な衝撃を与えて、正気を取り戻すために利用させてもらう。
湯浅はまだ、目の焦点が定まっていないようだ。いつもの力強い眼光も失われている。黒田が抱いていた、「上司は何があっても動じない、完全無欠の男」という、憧れに似た幻想は崩れてしまった。この世に「絶対」や「無敵」などという存在はあり得ないのだ。
「なんてことだ。仕方ない、二海を拘束しよう」
佐伯の言葉を聞いても、不思議なことに、彼は失望しなかった。それどころか体の奥から、今まで感じた事のない激情が突き上げてきて、灼熱のマグマのように胸を焦がした。
「しっかりして下さい、湯浅さん」
彼は湯浅をにらみつけた。言葉ではなく、自分の目から相手の目へと直接、怒りを注ぎ込むつもりだ。上司の逞しい上体を前後にゆすって、必死で訴える。何度も額がぶつかり合う。
目の焦点が徐々に定まってきた。黒目が艶を帯び、意志の強さを物語る光を宿す。突然、黒田は強い力で両の二の腕を掴まれた。
上司の彫りの深い顔を仰ぎ見て尋ねる。
「だいじょうぶですか、湯浅さん」
「あゝ」
いつもどおりの返事だ。おそらく、「だいじょうぶ、心配かけたな」という意味だろう。
心の底が抜けたような気がする。腕を掴まれていなければ、黒田はその場にへたり込んでいたかも知れなかった。
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