番犬

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黒田は袋の口を開ける作業を完了すると、間を置かず二重扉の通路へと再突入する。外の強い日差しのせいで、目が暗順応するまでに時間がかかりそうだ。目を閉じて深呼吸すると、獣の臭気が鼻を突く。彼は咳き込みそうになった。目に涙があふれてくる。血と汗、排泄物が混じって、鼻腔が痛むほどの刺激臭となっていた。 湯浅は開いたドアの向こう側で左正面を向き、腰を落として身構えている。人か大型の獣と対峙しているかのようだ。顔を逸らさず、まばたきすらしていない。黒田は喉から出かかった、大丈夫ですか、という声を慌てて飲み込んだ。上司がこちらに手のひらを向けていたからだ。 30秒ほど息を詰めていただろうか。その間に2回ほど、壁の向こうから発せられる唸り声と、鎖の鳴る音を聞いた。 湯浅が手のひらを上向きにして、手招きしている。出来るだけ音を立てないように近づくと、上司は小声で指示を出してきた。 「エサを出せ」 上司の指示は、隠語ではない。番犬、とくに危険な改造動物や合成生物との遭遇に備えて開発された、トクホ印の睡眠薬入り特製ドッグフードのことだ。黒田は急いで鞄から缶を取り出すと、湯浅の手のひらに乗せた。 ところが上司の左手はそれを、すぐに突き返してきた。黒田は自分のうかつさを呪った。缶の()()が閉まっていたのだ。慌てて缶を開き、ふたたび手の上に置く。 湯浅は正面を睨み据えたまま、緩やかに右手を動かした。腰を落とした姿勢で左手の缶に手を伸ばす様は、居合(いあい)の動作をみているようだった。元刑事の上司は剣道4段か5段、居合道も段持ちの達人だったはずだ。 やがて湯浅は中身をひとつまみ、正面に投げた。 黒田からは何も見えない。鎖がひとしきり鳴ったので、生き物が動いているのは分かった。耳を澄ますと、何かが喉を鳴らしてエサの匂いを嗅ぐ音が聞こえてくる。柔らかいが重そうな足音と、たまに床のタイルを引っ掻く爪の音から、虎やライオンの姿が頭に浮かんだ。 湯浅は一体、何を相手にしているのだろう。彼は固唾を飲み込んだ。
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