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唸り声というよりは呻き声ともいうべき、喉の奥で痰が絡んでいるような呼吸音がしている。濡れ雑巾で床を拭くような音は、壁の向こうの生き物が餌を口にしているからだろう。
湯浅は間隔をおいて、3回ほどに分けて缶詰の中を前に放った。最後に中身が残った缶を床に置き、滑らせるように奥へと押しやる。缶がタイルの床を滑る音が止むと、動物の呻き声が狭い空間に響いた。
「湯浅さん」
黒田は出来る限り、声を落として呼びかけた。
「あゝ」
「一体、何がいるんですか」
「もうすぐ眠る」
何が、眠るのか。
黒田が問い返すより先に、「あとふたつ準備してくれ」と、声がした。特製缶の中身は体重300kgのヒグマさえも眠らせる、睡眠薬入りドッグフードだ。あとふたつ必要とは、どういうことか。彼は上司の指示に疑問を抱きながらも、鞄の中に手を伸ばした。
缶が床に落ちる固い音が響く。続いてセメント袋を放り投げたような音がした。薬が効いて、「番犬」は眠ったようだ。
彼はそれでも言われたとおり、缶をひとつ開ける。次の瞬間、湯浅が息を飲んだ。右手が腰の専用特殊警棒に伸びていく。
「缶を、俺の前に置いてくれ」
近寄ろうと身を乗り出すと、上司は左手で「待った」をかけてきた。黒田は膝を曲げ、身を低くして缶を置く。下手投げで押し出すと乾いた擦過音を立てて床を滑り、上司の足元で止まった。
開いたドアから、動物の喘ぐような鳴き声が聞こえた。犬が吠えているようでもあり、肺を病んだ老人が咳をしているようでもあった。どうやら人間ほどの大きさをした動物が番犬をしているらしい。姿は見えないものの、あまり健康な状態ではなさそうだ。
湯浅が爪先で缶を蹴り、奥へと滑らせるとすぐに、壁の向こうで生き物がドッグフードに喰らいつく音がした。喉を鳴らす音がまるで、遠くで響く雷のようだ。口の形状が悪いのか、舌が器用ではないのだろうか。缶が床の上を何度も移動し、その度に金属音が響いた。
1分足らずで、静かになった。2匹目も眠りについたらしい。彼が胸を撫で下ろしていると、上司の押し殺した声が耳に届いた。
「もうひとつ」
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