『お父さん』

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 人の往来が激しい東京の駅、流されるままに改札を出た俺はスマホを片手にそわそわしていた。  理由は都会の激しい波に呑まれているのが半分、もう半分は久しぶりに親父に会うからだ。  親父は俺の生まれる前から単身赴任で二十年以上は東京で暮らしている。  だから親父が実家に帰ってくるのは三ヶ月に一度、しかも土日だけなので長期滞在と言えば年末年始の五日間くらいだ。  さらに俺も大学進学を機に下宿を始めたので、会う機会は前よりもぐっと減っていた。  では何故今日会うことになったのかと言うと、就活の面接会場が東京だったので今晩親父の家に泊まらせてもらうのだ。  俺はホテルでも取ろうかと思ったが母と兄がそうはさせなかった。 「せっかくお父さんが東京にいるんだから泊めさせてもらいなさいよ」 「お父さんのところ泊まったら夕ご飯もお父さん持ちだし、めちゃ浮くやん」  何度がやり取りをしたが、二対一はもちろん分が悪かった。結局俺が折れて親父の家に泊まることになった。  別に親父の家に泊まりたくないってわけではない。仲も悪くはない、というより悪くなるほど会ってない気がする。  でも、いざ二人きりになって何を話せばいいか全くわからなかった。  よく考えたら俺は親父の事をよく知らない。それ故か親父の呼称が俺の中で次々と変わっていった。高校の友達が「父さん」って言ってたから俺も「父さん」になった。大学の先輩が親父って言ってたものだから、俺も真似た。ただの呼び名だか、物理的とは別に、心の距離がそうさせていったのかもしれない。  一体、親父はどんな人なんだろう。  記憶の中にある親父を探していると改札から本人が軽く手をあげてこちらに向かってきた。 「おう、元気だったか?」 「ああ」 「お腹減ってるだろ?」 「まあ」 「何食べたい?」 「何でもいいよ」 「何があるだろ。とりあえず荷物うちに置きにいこう」  親父の後をついてエスカレーターに降りながら二つ下の段にいる親父の後頭部を見た。  元々髪はなかったが、白髪が増えた気がする。それに会った時の親父の目線はおれの顎らへんだった。  想像していた親父より貧弱に見えた。  それから親父の質問にイエスかノーで答えながら俺たちは親父の家に向かった。  親父の家に荷物を置いた後、俺たちは近くの焼肉屋さんに入った。 「どうせ家でろくなもの食べてないんだろ?」と親父は食べ放題二人前と生ビールを二つ注文した。  すぐに店員がキンキンに冷えたビールをテーブルに持ってきた。 「まあとりあえず、乾杯」  親父は俺の持っているジョッキに当ててぐいっと飲む。 「そういえば、一緒に酒飲むのは初めてだな」  親父は楽しげに酒を飲み、しばらくして来た肉たちを網にジャンジャン乗せる。たちまち煙が立ち上り、香ばしい匂いに自然と唾液が溜まっていく。  煙を挟んで焼肉奉行をする親父に茫然としていた。 「就活は順調か?」 焼き上がった肉のほとんどを俺の皿に乗せて親父は聞いてくる。 「まあまあかな」 「まあまあってなんだよ。ビール頼むけどいるよな?」 「明日面接だからそんな飲めないよ」  そかそか、と親父は「生一つ」と店員に人差し指を立てながら注文する。  おかしい、やっぱりおかしい。タン塩を食べながら親父を一瞥する。  この人は本当に俺の親父なのだろうか。  俺の記憶の中にいる親父とは全く別人のようだ。  まず、親父は下戸のはずだ。いつも缶ビール一缶で大きなあくびをかきながら布団に寝転ぶのを小さい時よく見ていた。そういえば外食の時は運転係だったので外で酒を飲む親父はなんだか新鮮に見える。  あと駅で会った時から気になっていたが、親父はこんなに饒舌ではない。無口ではないが、昔から静かな人だった。ウチは基本母と兄が話の主導権を握っており、親父の話をあまり聞いたことがないことに今更気づいた。 「普段さ、何してるの?」 「いきなりだな。普段って?」 確かに唐突だと思い、口にある食べ物を全て飲み込んでから口を開く。 「休みの日とか」 「そうだなー、休みは本読むかゴルフに誘われたら行くくらいかな。あとは……」  親父は箸を置いてしばらく悩みに耽る。 「そんな細かく思い出さなくていいよ」 「そうか、でもどうして?」 「いや、何となく」 「じゃあ逆に休みの日は何してるんだ?」  まさかの質問返しに今度は俺が腕を組むことになった。 「友達と寺とか神社回ったり、夜ご飯食べに行ったりかな」 「そっか」と親父は微笑んで白米を頬張る。  それから俺は大学生活や下宿先の周りの話をしながら、親父は質問しながら日本酒を二合飲み干した。 「悪いな、玄関狭くて」と親父が先に上がって部屋の明かりをつける。夕食前に来た時は荷物を置きに来ただけなので、親父の部屋はほとんど見なかった。 縦長の部屋は俺の下宿しているアパートより少し広かった。 「とりあえず座ってテレビでも見てたら」と親父は俺の手にぶら下がっているビニール袋を指差す。俺たちは帰る前にスーパーに寄ってお茶やら明日の朝食用のパンを買ったのだ。 「いいよ、俺やるから」 「じゃあ、よろしく」と言って親父は座椅子に向かった。  気怠そうな袋を床に置いて冷蔵庫を開けた俺は一瞬固まり、親父と冷蔵庫を見比べる。親父は既にテレビを見ており、こちらには気付いていないようだ。  冷蔵庫には三パック入りの納豆が残り一つだけ入っており、周りを囲むフィルムがしな垂れている。オレンジの光に包まれているのに、身を震わせるほど冷えていた。  一体どんな食生活を送っているんだ?  不思議に思いながらも俺は中腰に屈んで、黙々と買った物を冷蔵庫へ入れていく。お茶、ヨーグルト、お酒。入れながらふとある事に気がついた。  親父は帰ってくるとよく食べていた。まるで部活から帰って来た高校生みたいに、実際に当時の俺と同じ量を食べていた記憶が残っている。今日の焼肉だって、還暦間近とは思えない旺盛な食欲だった。  しかし、この空虚な冷蔵庫を目にしてやっと分かった。親父は普段必要最低限しか食べていないのだ。  親父の節約したお金は俺たち家族へ回っているのだろう。兄も俺も大学に行って、俺は下宿までさせてもらっている。親父は「大丈夫」と言うが、普通のサラリーマンにそんな余裕はないと思う。  ちらりと冷蔵庫のドアから部屋を覗くと、バラエティ番組を見ながら愉快に笑っている父がいる。しかし、その後ろ姿は俺の知っている親父の背中ではなかった。  小さい時に見た親父の背中は山だった。時々帰ってくる親父は俺や兄よりもはるか高くて大きいものだったので、よくその背中をよじ登っていた。  一つ昔のことを思い出すと、雨のように一つ、また一つと懐かしい記憶が落ちてくる。  遊び疲れて寝てしまった親父の背中、親父の肩に乗って見た景色はとてつもなく広大で 俺はどこまでも見える気がした。  小さく丸まった背中を見ながら冷蔵庫を閉めた。  親父はいつまでも大きいと思っていた。そして、あと何度親父とこうして会えるのかと思うと、その数は両手じゃ収まらないけど、とても少ないように感じた。  朝になって俺と親父はスーツに着替えた。親父は会社へ、俺は面接だ。  二人で駅まで歩くのは何だか照れ臭かった。  カラスの鳴き声を聞いているうちに駅に着いて改札を通る。親父とはここでお別れだ。 「じゃあ面接頑張れよ」と昨日と同じように軽く手を振って親父は反対の階段へ向かう。 「あのさっ!」  俺は咄嗟に階段を降りようとする親父を呼んだ。いや、呼びたかったのは親父じゃない。朝の出勤前だが人通りの激しい中、親父はこちらを振り返って首を傾げている。 「泊めてくれてありがとう、お父さん」  声が多少上ずった。触ってもないのに耳が熱くなっているのを感じる。  向かいにいる親父は少し笑って口を開いた。 「またいつでも来なさい」  そう言って階段を降りていく。  俺はお父さんの姿が見えなくなるまで向かいの階段を見つめていた。 「よし!」と新しい息を吸い込んでお父さんとは反対の階段を降りていく。  降りていく足取りがいつもより軽やかだ。
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