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飛火
ガシャン!
という派手な音で、異変に気がついた。
仲良く話し込んでいた朝陽と雛子は、咄嗟に互いの目を見合わせる。
周囲は電灯一本の明るさなので、その物音の詳細は確認できなかった。
それでも、少なくとも音の原因が車を挟んだ向こう側から聴こえたことくらいは判る。迷を待機させていたあたりだ。
(よまちぃは、ノエルが……)
見ているはずだ、と考えてから、今の音の正体をつかむ。携帯を地面に落っことした時の音に似ている気がした。
少し重たいような音だ。
だとすれば、朝陽の携帯を持たせていた迷の身に、何かあったと考えるのが妥当か。
「ねぇ 今のって……」
ようやく笑顔が戻ったばかりの雛子が、また不安げな表情になって、朝陽のシャツの裾を引っ張った。
「まさか、よまちぃ……?」
考えている場合じゃない。
慌てて車の向こう側へと、朝陽と雛子は回り込んだ。
停車させていたのは、雛子の乗ってきた白のスポーツカー。少し離れて、朝陽のバイクも停めてある。
400のストリートファイター。メタル・ブルーだ。
それ以外には乗り物も人も姿はない。ついさっきまで、そこにいたはずの夜中迷も見当たらなかった。
物音がしてから、まだ数秒。仮に走り去ったなら姿は見えるはずだ。
しかし迷は一瞬にして、姿を消した。
「あの子は?」
と雛子が問うのは迷のことだろう。
朝陽も周囲を見回して、その姿を探すが見当たらない。
駐車場から上にあがった広場にまで目をこらすが、人影らしきものはなかった。
「よまちぃ、どこに……。」
「あ、それ!」
と後ろに立つ雛子に示され、足下に視線を落とす。と、そこには見覚えのあるスマホが落ちていた。
見覚えも何も、朝陽のものだ。雛子と話し込んでいる間、迷に持たせていた。
画面は明るく、まだ通話中であることがうかがえる。
「ノエル?」
拾いあげて 呼びかけると、
『……う、……っ探偵さん?』
確かに電話の向こうには、まだノエルがいた。
地面に落ちた携帯は、ちょっと砂がついていてジョリジョリする。
砂を軽く払ってから、再び呼びかけた。
「よまちぃが消えた。…ノエル、何があったんだ?」
『すみません、色々と探りを入れてみたところ、逃げられたというのが正しいでしょうか。気配ごと消えました。」
普段のノエルの様子と違い、喋る言葉には抑揚がなく、淡々としている。
それは深刻な状況に陥った時にでるノエルの癖だ。いちいち感情にまで配慮している余裕がないとき、そういう話し方になる。
「お前は大丈夫なのか?」
『え?…はい、大丈夫です。電話の向こうで迷さんの気配が消えた途端、腕につけていた数珠が弾けて…、それでちょっと手が痛かったくらいです。』
と返ってくる。
ノエルのそのほんの些細な様子の変化にも、朝陽は気がついた。だが、まさかこの状況で自分の心配をしてくるとは思っていなかったので、ノエルは少し驚いてしまう。
『探偵さんは観察眼と優しさに関しては強いですね。』
と続けると、
「お褒めに預かりまして。」
と手短に朝陽が返した。
迷が消えた。ということは、それ以上の説明を聞かなくても、おおよそ予想がつく。
もう、ここからは余裕なんて一欠片もない捜査になりそうだ。
「よまちぃは……、本当は、もういない女の子だったのか?」
慎重に言葉を選んで口にした、朝陽の後ろで雛子が声をあげる。
「何? どういうこと?」
「つまり、幽霊……って、いうのかな。」
根拠はなく、非科学的な発想だ。だが、朝陽はあくまで真剣に話をしている。
『はい。僕の感覚を信じてくれるのであれば、という話ですが。』
とノエルが肯定した。
夜中迷という少女は、出会った時から謎多き女の子だった。
いなくなってしまった今になって、これまでの迷の姿が頭に浮かんでくる。強引に依頼を押し付けてきたことも、本心をなかなか明かしてくれなかったことも、子供らしい仕草や言葉遣いも、全て記憶に新しい。
その迷が、幽霊だったと言っているのだ。
「本気で言ってるの?」
ついさっきまで、もしも幽霊の仕業だったら〜、なんて話をしていたわけだが。
それでもまさか、ついさっきまで一緒にいた女の子が幽霊だったなんて、そんな話を突然されても信じられないのは無理もない。
スマホを回収して立ち上がった朝陽に、雛子は半笑いのような中途半端な顔を向けた。
「アタシ、あの子を車に乗せた! それに、会話もしたし、直に触れたの!」
「俺も触れたよ。頭も撫でたし。」
ナデナデしたよね。
確かに、迷のサラサラした髪の感触が手に残っている。後ろ襟を引っ張った時の僅かな重みも。
だが、それでも迷が姿を消したことに変わりはない。物理的に絶対にあり得ないことが、現実に起こっている。
「誰かに連れ去られたんじゃないの。」
雛子が、比較的現実的な話をした。
だがそれでは、物音を聴いてすぐに車の裏からまわりこんだにも関わらず、姿が見えないことに説明がつかない。
「俺はノエルの眼を信じている。ただ漠然と鵜呑みにしているわけじゃなく、今までにもこういうことはあったんだ。」
探偵という仕事をする中で、朝陽は霊に遭遇した経験が幾度かある。こんなふうに、怪談じみた噂話を調査するような現場でも、実際に死者が出た事件現場でも、ノエルを通して彼らの声無き声を聞いてきた。
今ここで疑いなく幽霊の存在を肯定できるのは、これまでの心霊体験があったからだ。
「夜中迷という女子高生は、この裏野ドリームランドで過去に、アトラクションの事故で亡くなっている。同姓同名か、なりすましかとも思ったが……。本人だったというなら、絶対に生きている人間じゃない。」
乾いた舗装路が見つめ返してくる。まるで、立ち尽くしている朝陽と雛子を嘲笑うようだ。
冷たい汗が首の後ろを流れていることを、雛子はずっと感じていた。
夜中迷という女子高生が本当に事故で亡くなっていたのなら、ついさっきまで一緒に歩いていたのは誰だ。
朝陽に依頼して、雛子の車に乗って、ここまで二人を導いてきた少女。
あれは誰だ?
目の前から消えてしまった、あの、少女は誰だ?
「嘘でしょ…。だって……事故で亡くなっていたなんて、教えてくれなかったじゃない。」
「言っても信じないだろ普通。それに、俺も生きている人間だと思っていたから…。」
「そんなぁ…。」
それ以上、言葉が続かない。
雛子が黙りこんでしまったので、比較的こういう状況に慣れている朝陽とノエルで、話を進める運びとなった。
「それで、よまちぃは何か言っていたか?」
と、また電話の向こうに会話を戻す。
『いえ、何も…。亡くなっていることを指摘したら、消えてしまって……』
普通に生きている人間でも、こんな時間にこんな場所で「貴方死んでますよね」と言われたら、怖くて逃げ出しそうなものだが。
「そうか…なんていうか、怖がらせちゃったのかな。俺達は死んでる人間に割と慣れてるのに…」
『これは僕の勝手なお願いですが、迷さんを探しませんか? 悪い霊ではないと思うのです。メリーゴーランドを動かしたのも、電気をいじったのも、感じた霊気から察するに迷さんだと推測されますが、悪意は無かった。』
未知との遭遇に慣れていない雛子はともかく、朝陽にとってはそれほど怖い経験ではなかった。
電気がつくのは便利だったし、メリーゴーランドも綺麗だった。ノエルが言う「悪意は無かった」という言葉には、朝陽も手放しに賛成する。
迷は、決して悪い霊ではなかったはずだ。
「あぁ、探そう。…よまちぃは俺の依頼人だ。例え幽霊でも、もう生きていなくても。」
力強く肯定した。
朝陽の返答に、ノエルは安堵する。
やはり朝陽はまだ熟していない木の実だ。そして、その未熟さの中に優しさがある。
出来るかわからない約束も、無茶をするのも、朝陽の十八番だ。
『手掛かりとしては、やはり迷さんが亡くなったというジェットコースターでしょうか。』
「ナビしてくれ。」
走って行こうと動き出した途端に、
カシン
と音をたてて灯りが消えた。どうやら、一番近い電灯が消灯したようだ。
明かりを完全に電灯に頼っていたので、突然馬鹿みたいに暗くなってしまう。
「よまちぃ?」
その変化に期待して声をかけた朝陽だったが、迷の姿は見当たらなかった。
まだ近くにいるのだと、つい都合のいい解釈をしてしまう。
『どうしたんですか?』
「今、灯りが消えた。」
ついさっきまで、映像でノエルに現地の状況をお届け出来ていたのも、あくまで灯りがついていたからだ。
頼りの電灯が消えてしまうと、何も映せない。
「仕方ないな。ペンライトじゃ頼りないが…」
シャツの胸ポケットから、朝陽はライトを取り出した。備え付けの電灯に比べたら比較にもならないが、今はその小さな明かりに頼るしかなさそうだ。
「お嬢さんはどうしますか。」
朝陽が呼びかける。
と、雛子はビクンと肩をすくめた。
「アタシは行きたくない!」
と全否定する。
無理もないか。そもそも、非現実的な姿の消し方をした人間を、探しに行こうという発想がおかしい。
朝陽やノエルには、もう心霊的な現象に対する耐性ができている。そのせいか、雛子から見れば驚くべきようなことを、簡単に口にしてしまうところがある。
「…それもそうか。」
と、朝陽は素直に肯定した。「お前も来いよ」というような、無粋な台詞は吐かない。
むしろ素人がついてくると何かと面倒くさいので、いない方が勝手が良さそうだ。
いや、そんな言い方は酷いか。すまない。
「わかりました。ただ、それなら車でジッとしているか、すぐにでも山を降りた方がいい。弟さんのことは後日、改めて依頼としてうかがいます。」
軽く会釈で挨拶を済ませ、朝陽はライトを頼りに進もうとした。
電話の向こうから、ノエルの淡々とした口調で指示がある。
『探偵さん。問題のジェットコースターへ向かうには、さっきのメリーゴーランドとは反対側です。東寄りに進んでください。」
東寄り。思い出して、いい気がしない。それは迷が持ってきた、一本のビデオカメラが原因だ。
(東寄りにあるのは、ミラーハウス…。問題の、例の動画に映っていたやつだな。)
迷が幽霊だったとなると、例のビデオの出処は何処なのだろう。とか、余計なことを考えてしまう。
迷が捜査資料として朝陽に押し付けてきたビデオには、撮影者がアクアツアーで『謎の生き物』に襲われ、ミラーハウスで映像が途切れるのまでの過程が綴られていた。
『無理はしないでくださいね。』
「よまちぃが裏野ドリームランドの噂の正体だとすれば、よまちぃがいなくなった以上、何も起こらないような気もするけど。」
『油断は禁物です。』
ライトをつけると、足下に光が落ちた。朝陽の汚れたスニーカーを照らす。
小さな腕に掴まれている気がして、咄嗟に足で払った。
後ろでは、雛子が車に乗り込もうと、扉を開ける音がする。
「絶対に戻ってきてよ!」
声をかけられ、朝陽は笑顔を返した。
特に勝算があるわけではないのだが、「ノエルがいるから大丈夫ジャネー。」と思っている。
雛子の瞳は困惑で揺れている。それがあまりにも露骨に見てとれたので、帰ってくるけど遅くなります、とは言えなかった。
勇んで飛び出し、裏野ドリームランドの入口ゲートまで戻ってきて、朝陽は足を止めた。
異変に気が付く。
「あれ。明るい。」
それは朝陽の持つペンライトの光が大きくなったわけでも、突然、夜が明けたわけでもなかった。
電灯やアトラクションの装飾灯などが全て点灯し、遊園地全体が明るさを保っているのだ。
入口ゲートのすぐ脇に立つ、廃屋のようなチケット売り場も、知らないうちに電気がついている。
とりあえず、電池がもったいないので、ペンライトの電源は即おとす。
それからスマホを構え直して、ゲートの向こうをカメラに映した。
「どうなってるんだ、ノエル?」
勝手に動いているのは電灯だけではない。遠巻きに見える観覧車も、ゆっくりと回転しているのが見て取れた。
ゲートの少し上に見えていたジェットコースターのレールの一部。その上を、轟々と音をたてて、無人の乗り物が走り抜けていく。
園内にかけられた愉しげな音楽やアナウンスまで作動しているではないか。
閉園間際の時間のような、閑散としながらも騒がしい空気が出来上がっていた。
これまでも数奇な事件現場を目の当たりにし、そのたびにノエルの霊感を役立て解決してきた朝陽探偵。
その為、多少の非現実的な惨状は目に慣れてきた。だが、ほんの少し前まで寂しい通りや壊れた遊具を目にしていたせいか、この遊園地の豹変には驚かずにいられない。
「これも裏野ドリームランドに纏わる怪奇の一つなのか。」
『というよりは、迷さんの想いで作られた世界でしょうか。彼女の気配がするのです。』
気配ってどんなものだろうな。
と、常々気になっている朝陽さん。ノエルの霊感を信じているし、アテにもしているが、どんな世界が見えているのかは想像もつかない。
「とりあえず、中に入るぞ。」
と言ってゲートに向かってみると、ゲートもすっかり様変わり。新品同様になっている。
無人の為、防犯能力はないが、チケットを通さないと開かないフラッパーゲートが並んでいる。
夜中迷が生きた人間ではなかったとしても、こんな風に遊園地を営業していた頃のような姿にできるものなのか。
だとしたら、この遊園地に執着する迷の想いの強さを、改めて認識させられる。
(べつに人が見ているわけでもないし、乗り越えるか…。)
野蛮な不正入場をしようとする朝陽。
その目の前を、ほんの一瞬、何かが横切る。
「うわ!?」
と驚いて、つい声を出してしまった。だが視界に入ったものは小さく、殺傷能力のなさそうな軽いものだ。
ヒラヒラ舞うように落ちてきた。
紙かな?
朝陽の鼻先をかすめて、地面に落ちた。それを追って視線を下げると、長細い短冊型の紙が落ちている。
(どこから落ちてきたんだ?)
動きはほぼ垂直、真上から落ちてきたようだが、見上げてもそこには夜空しかない。
『どうしました?』
とノエルが問いかけてくる。
その携帯のカメラに映しながら、朝陽は自分の足下に落ちた短冊を拾いあげた。
「は? 読めん。」
あぁ、横向きか。どうやら短冊型の紙ではなく、横長のチケットだったようだ。
裏野ドリームランド入場チケット、と表面にデカデカと書いてある。過去、まだこの遊園地が使われていた頃に、実際に使われていたもののようだ。
色が少しくすんでいて、デザインもどことなく古い。
「なんだこれ…」
チケットだ。
ということは、わかっているのだが。そんな言葉が出てしまう。
「えっと、このチケットは裏野ドリームランドの入場とアトラクションの搭乗に当日のみ使えます。併設されている裏野ワンダープールは別途使用料金が必要です。」
とか、裏面をつい読んでしまう。
「プールもあるんかい。」
さらに突っ込んでしまう。
その後も再三ひっくり返して両面を確認してから、
「気持ち悪い…なにこれ。」
朝陽は同じようなことをまた口にした。
廃園はされたはずの遊園地が突然息を吹き返し、その遊園地の入場チケットが空から降ってくる。
奇妙だ。
とても奇妙だ。
現実に起こっている出来事だとは思えない。
だが、この後さらに予期せぬ事態に見舞われる。
「ノエルー。」
「なんですかー。」
「なんか、さらにいっぱい降ってきた。」
長方形の入場チケット。それがヘリで上空からバラまいているかのように、大量に空から降り注いでくる。
だいぶ汚い。
いや、汚いというか、数が多すぎてゴミに見えてくる。
チケットのサイズが大きいので、紙吹雪のように綺麗とはとても言い難い。
「すげぇ入場無料。」
とまた朝陽がツッコんだ。ノリツッコミがとまらねぇ。
ひとまずカメラでグルリ一周。
「今こんな感じ。」
とノエルにも見えるようにする。
『これ、万札だったら良かったのに…』
ごく一般的な発想でノエルが口にした。これが万札だったなら、朝陽は口を開けて待機していたことだろう。
『まぁ、どれでもいいので一枚とってください。ゲートの先へ向かいましょう。何か意図があるのかもしれません。』
「ふむ。」
ノエルの言う通り、一枚あればゲートはこえられそうだ。でもせっかく沢山降ってきたのに、一枚だけではもったいないような気がするな。
「ノエルの分ということで。」
最初に拾った一枚にもう一枚足して、二枚にしました。
『お気遣い有難うございます。』
「なんかノエルと遊園地に来たみたいでちょっと嬉しい。」
こんな時でも通常運転の朝陽の言葉を受けて、ノエルも少し気が楽だ。気の持ちようは大事だと思う。
本来ならばこんな奇妙な現象を目の当たりにして、逃げ出してもおかしくはない。
「よまちぃは何がしたいんだろうな。」
ふいに朝陽が、話を本題に戻す。
『仮に何かしらの意図を探偵さんに伝えたいのだとすれば、確実に伝わるように何かヒントがあるはずです。探しましょう。』
「おお。探しものか。」
そういうのは、いつもやってるので得意です。
「それじゃあ裏野ドリームランド、じっくり見させてもらいますか。」
そういうことになりました。
ゲートはチケットを通すことで、すんなり開いた。本当に遊園地に来たみたいでほんの少しワクワクするが、事態が事態なので、あくまで、ほんの少しだ。
ゲートを通り過ぎると広く開けた通路。園内の案内板に、綺麗な建物。
屋根が潰れかけていたような気がするが、こちらの建物もすっかり元通りになっている。
どうやら飲食スペースだったようで、建物の外にはたくさんのメニュー表が出ていた。
テーブルやイスも、きちんと室内で並んでいる。気が変になりそうだ。本当に、ついさっきまで、あれだけ荒廃していた建物なのに。
その反対側には、ウサギのオブジェ。蝶ネクタイにシマシマパンツ。
「うわブッサ。」
こいつ、さっき来た時は首飛んでた奴じゃね。頭部がお帰りだぜ。
『ブッサはやめてください。せめて、ぶちゃいくと。』
「ぶちゃいく。」
わざわざ言い直す朝陽。このウサギ、あまり可愛くないのだが、強烈に印象に残る。なんでだ。
『よく見たら、ウラノンじゃないですか。』
なんだが親近感のありそうなノエルの発言に、朝陽はまた、まじまじとウサギを観察する。
「は? ウラノン?」
『この裏野ドリームランドのイメージキャラクターなんだそうです。』
「イメージキャラクター? このぶちゃいくが?」
『近くに時計があるでしょう。ウラノンの傍には必ず時計があるそうです。時間を気にせず遊んでもらうために、数カ所しか時計がないそうで。数少ない時計を探しやすいよう、目印にそこにウラノンが。』
たった今カンペを読み上げているというような、ノエルの棒読みの説明。このブサウサギ、背が低いので、時計の目印なのか、時計が目印なのか、よくわからない。
「まぁ、確かに時計はあるけど…。」
と見上げてみて、ふいに異変に気がついた。
ウラノン。
の、背後に立つ時計。長い針が下の方、短い針は上の方に向いている。
二時二十五分だ。
「ん?」
何かが、おかしい。
「ここの時計、さっきは違う時間で止まっていなかったか? 俺、時間が合っていなかったから、止まってんなぁって思ったし。」
そういうところ、朝陽はよく覚えている。思考力もなく、人としても探偵としても半人前な朝陽だが、記憶力では誰にも負けないところがある。
『確か、迷さんが持ってきたビデオカメラの中で、ここの時計が映っているシーンがありましたね。』
朝陽のささやかな疑問に、ノエルは丁寧に乗っかった。
「あの時は確か、…五時二十五分だ。」
それもまた覚えていたらしく、朝陽が口にする。
『時計が…戻った?』
「なんか、これ、引っかかるんだよな…。なんだろ。」
消えた迷を探さなくてはと思いつつ、どうにも時計が気にかかる。
ウラノンと向かい合うように、朝陽は立ち尽くした。
周囲からは馬鹿みたいに平和な音楽が流れ、アトラクションが稼働する音が響いている。
何も知らない人がこの場に来れば、なんの疑いもなく営業中だと思いそうだ。
廃園したはずの遊園地。
それがまるで蘇ったかのように、また愉しげに人を誘いはじめる。
修繕された建物やアトラクション。
賑やかな音楽。
明るい照明。
戻された時計。
一日限りの入場チケット。
「この遊園地で亡くなった女子高生…。夜中、迷…。」
今日一日の出来事が、ビデオの巻き戻しのように、朝陽の脳内で逆再生していく。
迷が朝陽探偵事務所に来た今朝のこと。朝陽が整理していた、父親の遺した資料のこと。
今日、一日で目にした数字が、朝陽の脳内に整然と並べられる。それぞれが、何を表す数字なのか、小さなタグをつけて。
自分の脳内世界に入り込んだ朝陽は、周囲を一切気にすることなく、ゆっくりと思考する。
「そうか。」
と、ふいに言葉を零す。それから慌てて、手元に残った入園チケットを確認した。
有効とされるのは一日限りなので、日付がわざわざ印字されている。
指で押さえて何度も確認してから、朝陽は顔をあげた。
「ノエル、一つ思いついたことがある。」
『なんでしょうか。』
朝陽が唐突に思いつくのはいつものことなので、ノエルは慣れた風で問い返した。
ウラノンがじっとりとした目で、朝陽を睨み返してきている。
「もしかしたら、ここはよまちぃが亡くなる直前の遊園地かもしれない。」
夜中迷が、アトラクションの事故で亡くなる前の、裏野ドリームランド。
そこはまだ何の爪痕も残されていない、平和そのものの夢の国。
『と、言いますと?』
「日付だ。チケットの日付は、親父の資料にあった、アトラクションの事故があった日。時計の時間は事故が起こる二十分前だ。』
そこまで正確に思い出せたのは、朝陽の記憶力によるところである。
「よまちぃは、俺達に止めて欲しいのかも…。ジェットコースターに乗る自分を…。」
それは朝陽の想像でしかないわけだが、それでも口に出したら泣きそうになった。
現実を忘れ、一日楽しい時間を過ごせるはずだった。いつかの夜中迷。
楽しさと刺激を求めて乗り込んだアトラクションで、まさか自分が命を奪われることになるとは、迷はきっと思いもしていなかっただろう。
何故。
どうして。
何一つ理解が追いついていない中で、迷の生きる時間は止まった。
『確か、裏野ドリームランドのアトラクションの事故といえば、搭乗口でたくさんの人が押しあって、女性が一人コース内へ落ちて転落死したそうですね。」
ノエルが淡々と事故の内容を言い上げる。
「え、そうなのか? 資料じゃ点検不備でアトラクションが急停止して、客が放り出されたとかなんとか。」
情報が錯綜する。
いずれにしろ、乗り込む前に止めなければ。
それで迷が生き返るわけではないが、気持ちの問題なのかもしれない。
迷の心が事故のあった時間に縛られているのなら、朝陽が事故を止めることで、迷の気持ちを開放することになる。
「とにかく、よまちぃを探さないと。」
『だとしたら、時間がありませんよ。』
「広いからな…」
なにぶん、山の中のアトラクションパークなので、広いのです。直線距離で言っても、ジェットコースターの乗り口までは、かなりの距離がある。
「走るしかねぇ。最短距離でナビしてくれ。」
強引に足で突破しようとする朝陽。
その心意気を尊重して、
「了解しました。」
とノエルが答えた。
☆★☆
静かになった、真っ白の世界。
そこに立ち尽くしていると、自分の体の周りを、ゆっくりと霧が流れていくのがわかる。
今にもこの霧が形を成して巻き付いてきそうだ。ヒンヤリと冷たくて、不気味な霧。
嫌な霧だ。
(もうだいぶ時間が経ったのだけど……)
と心の中で思っているが、実のところはどうなんだろう。携帯が死んでて時計がないからな。
しかし人を待っていると、一秒が一分にも、一時間にも感じられる。
アクアツアーの岩山の中にいた。
一人だ。
ここまで一緒に来たウインドブレーカーの彼が、帰ってこない。水音に続いて人の声のようなものが聴こえたので、探している友人かもしれないと言って、引き返したのが少し前で。
様子を見てくると行ったっきりで戻ってこない。
(なぜに?)
仮に水音や物音の主が、片腕の友人であったなら、ここから抜け出す為に、すぐにでも連れて引き返してくるはずだ。
それなのにこの霧の中、いっこうに姿が見えてこない。
背中が寒い。肩が冷える。息が詰まって、呼吸が難しい。
どうなってるんだよ。
別の可能性として、水音の正体はやはりアクアツアーのアトラクションに潜む『謎の生き物』だったというケースもあるか。
仮にそうだとすれば、彼は襲われて食べられてしまったのだろうか。
友人は腕をちぎられたのではなく、腕だけ残して飲み込まれたのでは?
あらゆる可能性が、浮上しては消えていく。
(俺だけでも先に逃げた方がいいのか? もともと、そういう約束だったのだから。)
考えている余裕なんてない。時間も、置かれている状況も、ほとんど正確に理解できていないのだ。
その不安感が、気をはやらせる。
「くそっ。」
ウインドブレーカーの彼。道に迷っていたところを、親切に助けていただいた。
そしてここまで連れて来られて、たった今まで一緒だったのに。
足下はコンクリート地面。その横に幅広のウォータースライダーが通っていて、本来ならそこに水が入り、船で通るはずだった。
周囲は白い霧に覆われ、足下以外は何も見えない。かろうじて灰色の岩壁が、白の向こうにうっすら見える。
自転車を押しながら走りだすが、勾配が急でスピードが出ないので、ノッタリノッタリだ。
岩山を模した上り坂を走る。地面が凸凹。
(あぁ、もう。……なんでこんなことになるんだ!)
結局こうなるんだから、やっぱりこんなところに来なかったらよかったじゃないか。
あんなに妙な噂をたくさん知っていたのだから、ある程度、警戒してくれよ。
もう。
と内心は怒りつつのランニング。
この坂をぐーっと上がったら、そこからはウォータースライダーを一気にガーッと下るやつだ。んで、水に突っ込んでビッショリ濡れるやつね。
そういうアトラクションだったことは、外から見てすでにわかっている。
坂道で逃げ足がどうしても重いので、途中からはロードバイクに跨った。
登りは自転車に乗った方が楽だな。そしておそらく下りも、自転車の方が早そうだ。
岩肌で囲まれた視界の先に、白ではなく黒が見えてくる。夜空だ。
トンネルになっていた山ステージを終えれば、視界が開けて、そこからは下り坂になる。
「はぁ……はぁ……」
ペダルをこぎながら、涙が出ていて、息がきれていた。
今、遠ざかっていく背後では、裏野ドリームランドのアクアツアーに棲みついた「何か」に、彼が殺されているかもしれない。
悲鳴も何も聞こえなかったのは、ひと飲みにされてしまったんだろうか。
そんなことを考えると、どうしようもなく泣けてくる。
こんな田舎の山奥にある、廃園した遊園地では、誰も探しにこないだろう。人間が二人消えたくらい、世界中の誰一人、気が付かないのでは?
「この遊園地、なにがいるんだよ…。」
泣き言しかでてこない。
それでもどうにか、足は止めずにペダルをこぎ続けた。
行きはあっても、帰りがあるとは限らない。そんな現実を突き付けられた気分だ。
スライダーを下までくだると、見事に水を被った。半分水につかったところで、タイヤがその水を巻き上げたからだ。
ついさっきまで白く冷たい霧に包まれていたのに、このうえ水を被って寒すぎる。
極寒だ。
同行人を奪われ、体力を奪われ、体温も奪われ、希望も失った。
もうライフがゼロよ。
しかし水に半分沈んだような状態で、水路は続く。
そこからは密林コースだった。ふいに周囲に木々が立ち並び、湿った空気に苔が生えている。
なかなか忠実に再現されているのだが、植物の管理はやはり難しいのか、屋根に覆われ温室になっていた。
夏の暑さに熱され、霧に冷やされ、温室に蒸される。暑いんだか寒いんだか。
おかげで体調も悪くなってきた。吐きそうだ。さっきからずっと足元がおぼつかなくて、目眩がしている。
ウインドブレーカーの彼のことは。
もう諦めよう。
(今はこのわけのわからん場所から、自分でが出て行くのが最優先だ。)
そして山をおりよう。もうこの際、道がわからないなどと言ってはいられない。
水路からタイヤを持ち上げ、コースから勝手にはずれて密林へ入る。とても自転車では走れそうにないので、ここからは徒歩だ。
水路から陸にあがる。足下は柔らかい土と草。緑の濃い匂いがする。
当たり前だが作り物の世界なので、鳥や虫の鳴き声は聞こえなかった。これがまだ営業していた頃なら、雰囲気づくりに、録音したものを流していたかもしれないが。
ヒュイイィン
と、そこでまた例の声がした。
「この声っ…」
足を止める。声は遠い。
だが確実に聴こえた。船着場で聴いた、謎の生き物の声だ。
一体どういう生き物なのか、姿形すら見えてこない。
振り返るとかなり遠く、水路の向こうの林の、さらにその向こうに、広大な湖が覗いていた。あそこから岩山を経由してここまで来たんだ。
やはり、水中に何かいるのか。
(取り急ぎ、水から離れないと…)
水から離れておけば大丈夫という定説は、先に崩れているが。それでも多少なりマシだろうと思って進む。
「はぁ……はぁ……」
ライトの光が林の中を照らしだす。水路を辿っていたら、また湖に戻ってしまうので、非常の出口を探すのだ。
大丈夫大丈夫大丈夫。
落ち着け落ち着け落ち着け。
「ちゃんと帰れるよ。大丈夫だよ。」
と自分を励ましながら進む。なんだか無性に心細い。
ロードのタイヤが枝をふんだ。パキッと音がして、地面で何か跳ねる。
視界は全てが影絵のようにシルエットで描かれている。木。木。首をつる人影。木。
大丈夫だ。問題はない。
でも怖い。孤独だ。今自分は一人ぼっちで、肉食生物と同じ檻の中を歩いている。
「…はぁ、死にたくない……。」
夜が明けたらどうなっているんだろう。それまで無事でいられるだろうか。
夜が明けたら全部、夢だったらいいのに。
パシャン、とまた水音が聴こえて、逃げるように足をはやめた。草を踏みつける音と、タイヤが回転する音が響く。
嘲笑うように月は遠い。
(こんなところで、俺も死ぬのか?)
と思った矢先に透明な扉が見えた。
扉の向こうは呆れるほど世界が違う。
汚れて透明度の落ちた硝子扉、その向こうに遊園地の遊具が見える。動物が行儀よく並んでいた。
パンダ、クマ、ゴリラ、バク。あ、いやゾウか?
百円入れたらウィンウィン動くやつだ。電動遊具。
遊具が見えるということは、この扉の向こうは無事に園内の敷地ということだ。
外から見たアクアツアーの構造から、この扉から出ると南東の方向か。遊園地の出口には比較的近そうだ。
助かった。本当に助かった。
ひとまずこのアクアツアーから一刻も早くリタイアしたい。
(鍵とかかかってんのか?)
と思いながら、扉をベタベタ触っていると、ふいに扉の外に人影が立った。黒い影が視界に入るだけでも、ゾクリとしてしまう。
誰かと思えば、意外な人物だ。
「え……!?」
ウインドブレーカーの彼だった。
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