第一章・―春の詩―

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 ある日突然、彼女が涙で頬を濡らしながら花屋に現れるまでは――。  その日、彼女が訪れたのは金曜の午後ではなかった。  初めて予定外に訪れる彼女を見て、少なからず驚いた。  ……それ以上に驚いたのは、いつも笑顔が眩しい筈の彼女が、泣きながら花屋に入ってきた事。  何故彼女は泣いているのか、聞いてみたかったがそれは出来なかった。  今の時点では、どうしたって俺と彼女は、花屋の店員とその客の関係なのだから――。  そう考えている内にも、泣きながら、店に展示している中から一本の花を取り出して、ゆっくりと俺に渡す。  一瞬戸惑ったが、会計を済ませてくれという事だろうと思い直し、その花を見る。  それは白チューリップで、花言葉は「失恋」。  その瞬間、全てが分かった気がした。  彼女はこの前偶然目撃した男と、何らかの理由で別れてしまったから泣いているのだ。  少しの間を空けてからその花を受け取るが、このままではいけない気がして、レジに持ってはいかないで思い切って彼女に言った。  ――泣かないで下さい。  頭では不謹慎だと分かっていた。  こんな告白の仕方は、彼女の弱みにつけ込むようなものだ。  だがそれでも……。  全身全霊を懸けた告白をして、例え彼女に振られても悔いはないと、そんな思いを胸に、俺が今まで抱いてきた気持ちが伝わるかどうか賭けてみたのだ。  俺は祈るようにして、白チューリップの代わりに、彼女の手にベゴニアを持たせる。  その花言葉は「愛の告白」、もしくは「片思い」。  彼女はそれをはっとした表情で見ると、しばらく動きを止める。  そして涙の跡が残る頬を緩ませると、小さく笑ってくれた。  やはり彼女は、とても笑顔の似合う素敵な女性なのだ――。
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