第一章・―春の詩―

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 その(ひと)は、とても良く笑う人だった。  笑顔が素敵で、俺なんかには到底近付けない高嶺の花……。  自宅近くにある花屋の店員として、ただ無為に働く日々。無論の事、正社員である訳もなく、ただのしがないバイトの身。  いわゆるフリーターというやつだ。  生きる目的もなく、彼女に出逢う今に至るまでだらだらと過ごしてきただけの、本当にどうしようもない男だった。  彼女はそんな俺に、目的というか生きる希望、否、目標を与えてくれた。  本当は直接彼女と接触した訳ではないから、それはあくまでも、自己満足的な感情によるものなのだけれど……。  彼女と俺は、まだ何の接点も持たない。  敢えて言うとするなら、花屋の店員とその客、それだけだ。  ある日ふらりとやってきて、それ以来必ず花屋に顔を出してくれる。  彼女がやってくる金曜の午後を、楽しみに待っているのだ。  彼女はいつもの時間に花屋に現れて、そしていつも同じ花を買って行った。  彼女が買う花は白百合――。  初めて俺が接客した日に、白百合の花言葉は「純潔」と言うのだと教えてくれた。  それを聞いた時に、彼女にとても似合う花言葉だと思ったのを覚えている。  それから彼女は、色々な事を教えてくれた。  何も知らない俺に対して、彼女は花の事をよく知っていた。  突拍子もない答えを返すのに、それを馬鹿にするでもなく、少し困ったように笑う。  そんな事を繰り返す内、彼女に少しでも認めてもらいたいと、勉強を始める事にした。  まず覚えていったのは、接客態度についてのノウハウだった。  誰にも何も教えてもらわずに、自分の力だけで接客が上手くなれば、きっと彼女にも見直してもらえる。  そう思って本屋に行き、それと名の付く本を片っ端から買い占める。  それからというもの、バイトを終えてから帰宅するなり本を開き、一心不乱に読み進めていく日々が続く。
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