第一章・―春の詩―

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 いつもではない時間に偶然見かけたのが嬉しくなって、思わず声をかけようとしたが、すぐに止めた。  彼女は、見知らぬ男と楽しそうに笑いながら歩いていたのだ。  いたたまれなくなって、歩道から目を逸らす。  振り向いた拍子に、夜の灯りのせいで、丁度鏡のようになっているウインドウが目に入る。  そこに映っていたのは俺の顔だ、何の変哲もない俺の顔……。  悔しくなって、彼女に気付かれないよう、静かに店を閉めてから中に入った。  次の日からは、外見の研究をするようになった。  勿論接客の勉強をした時に、見た目が清潔な方が、良い印象を持たれるとはあった。  だけど単に服装を清潔なものにするよう心掛けただけで、ファッションと言う意味での研究をした事はなかった。  眼鏡をコンタクトにして、ヘアサロンに行って髪を整え。服装を流行の最先端のものに変え、それが野暮ったく見えないように、コーディネートの研究までした。  すると今度は女性客が、俺の外見目当てで店にくるようになった。  それまでずっと、俺には見向きもしなかった女性も、少し外見が変わっただけで、笑顔で対応してくる。  何も変わらないのは彼女だけだった。  彼女だけはいつも通り金曜の午後に現れて、白百合の花を買って帰って行く。  変わった自分に対して、何か言ってもらいたかった。  だけど同時に、そんな風にして、誰に対しても変わらず笑顔を向ける彼女を好きになったのだと思うと、不思議と心が温かくなる。  彼女が幸せならそれで良いと、単純にそれだけを思っていたのだ。
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