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《衆道・その他の武将シリーズ②》
戦国時代の実際にあった衆道話を書き連ねてます。
『衆道・他の武将シリーズ②』と言うことで今回は徳川家の方々の萌エピソードを書き連ねていきたいと思います(*^_^*)
前にも書きましたが、家康さまと、井伊直政さんは史実上では衆道の関係だったということは有名な話ですね(^^)
しかも家康さまは、寵愛したおのこは直政さんだけというところがかなり萌ポイント\(//∇//)\
(当時衆道は普通の嗜みでしたが家康さまはあまり興味がなかったにも関わらず美しかった直政さんだけは例外に寵愛されたのです)
家康さまは本当に直政さんのこと好きだったんですね~\(//∇//)\
そんな家康さまの息子、二代将軍秀忠さまは、なんとなんと身分が高いにも関わらず、攻め手ではなく受け手をやってのけたと記録に残るビックリ殿様です…(^^)
何度も言ってますが、当時、衆道とは年上が年下を、家柄が高いほうが低い方を攻めるのは暗黙の了解というか、破ってはならない決まり事だったのですが(^^;;
その下克上をやっちまったのは丹羽長重さんという信長の家臣の息子でした(^^;;
秀忠さまがまだ元服前で幼名、竹千代と名乗っていたころ(^^)
竹千代さまのもとに丹羽長重が度々訪れ衆道の契りを結んでいたとのこと…(*^_^*)
長重の方が竹千代さまより8歳年上だったため、年齢的には衆道として竹千代さまが受側になるのですが、言わずもがな、家格は竹千代さまの方が上(^^;;
衆道のルールとして家格の差を無視するのは真の禁忌とされていました(^^;;
攻めちゃった長重さんも衆道のルールを重々承知していた筈なので、邪な気持ちを持ちながらもかなり我慢してたと思われます(^^;;
でも竹千代さまが可愛くて可愛くて仕方なくてついには契っちゃったと\(//∇//)\
竹千代さまもその愛を受け入れて仲むつまじくされていたご様子で(^^)
『長重殿…この先、いかなることがあろうとも、私はこの誼を忘れません』
と長重に固く誓っていたそうです\(//∇//)\
(この頃はまだ戦国乱世だったので、いつお互いが敵と味方になるとも知れなかったためこのような約束をしたのだと思います)
そして時は経ち、数年後、皮肉にも関ヶ原の合戦で丹羽長重は西軍に、秀忠さまはもちろん東軍に組して、お互い敵対してしまいます。
関ヶ原で勝利したのは東軍、西軍に組した者は死罪、お家取り潰しや領地減封などの厳しい処分が充てられたにも関わらず、なぜか丹羽家はお家取り潰しを免れました。
これは家臣のとりなしもありましたが、その裏で、昔の誼を決して忘れなかった秀忠さまが、家康さまに『丹羽家の長重殿は昔、私がお世話になった御仁です、どうかお咎めなきようお願い申します』と、進言して、例え敵になったとしても、数年前の約束を守り長重を救ったといわれています(^^)
秀忠さまはとても優しいお方だったのですね(*^_^*)
戦国時代ならではの良いお話です。
徳川家の方々は結構個性が強かったり変わり者が多かったりしますが、秀忠さまは歴史的にもあまり目立たない方ですが(^^)
性格も縁を大切にする、控えめな優しいお殿様だったようですね(^^;;
そんなかわゆい秀忠さまの血を受け継いだ息子三代将軍家光さまはさらにおのこ好きの困ったちゃんでした(笑)
この家光さまのことも書きたいのですが…いい加減日記が長文になりすぎているのでいったん切りますね(^^;;
また『衆道・他の武将シリーズ③』に続き書きますので。
駄文ですが暇なときに良かったら目を通してやっていただけると嬉しいです(*^_^*)
読んでくださった方、本当にありがとうございました(^^)
逸話というものは長い年月の間に脚色されたりして全てが真実とはいえないんですが火のないところに煙は立たぬと言いますしw
その中に隠された真実が垣間見えるとこが萌えますね\(//∇//)\
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