武将【宇喜多秀家】

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宇喜多秀家公命日。 今日は岡山生まれの戦国武将で関ヶ原合戦まで岡山城主だった宇喜多秀家さまの話をしたいと思います。 いつもながらかなりの長文ですので、読むさいは寝落ちなどご注意くださいませ(^^;; 宇喜多秀家公命日。 明暦元年11月20日。(1655年12月17日) 宇喜多秀家さまは幼名を八郎と言い、父直家さまと直家さまの二番目の奥さんおふくさま(円融院)との間に生まれました。 おふくさまには連れ子がおり、三浦桃寿丸が異父兄にいたので次男となっていますが、直家さまの嫡男としては八郎さまただ一人だったのです。 (他は女児ばかりだそうです(^^;;) なので長男ではなく次男の秀家さまが跡取りとなるんですね。 しかし直家さまは血はつながっておらずとも桃寿丸と八郎を分け隔てなく可愛がり、八郎さまも本当の兄弟のように仲良く育ったとのこと。 八郎さまが8歳の頃、直家さまが大病を患われ、余命わずかな状態になります。 その頃の戦局は毛利軍と織田軍がにらみ合っている状態で、宇喜多家は毛利側に組している状態でした。 しかし長い目でみた場合、毛利軍が不利になることが濃厚となっていました。 このままでは宇喜多家が危ない… 謀略家だった直家さま、病の床で自分が死んだ後どうすれば宇喜多家と幼い八郎が生き残れるか考えに考えました。 宇喜多家が生き残るには織田軍へ寝返るしかない。 しかし謀略家で知られていた直家さまを信長はまったく信じておらず、『あんな謀略家、信用できぬ、いらぬわ~!』と宇喜多家を軍門に入れる気なんかさらさらなかったのです(´Д` ) どうにかして取り入りたい直家さまは、なんと嫡男の八郎さまを人質に出すことで忠誠の証を示そうとします。 (直家さまには八郎さましか嫡男がいないため、大切な息子を差し出すことがなにより信頼を得られると考えた) そして何より自分の息子が特別、見目可愛らしいということを認知して最大の武器として使ったのです(^^) 信長さまの早速取り次ぎ役であった秀吉と八郎を面会させます。 秀吉は八郎のあまりの可愛らしさに一目で気に入り、この子なら信長さまにお目通りさせても大丈夫だろう‼とトントン拍子に信長さまへ面会することに… 信長さまは『あの謀略家の息子だ、どーせ生意気な糞ガキなんだろう』とめんどくさがっていたのだが… 八郎を一目見るや… 美少年好き信長さまのハートを見事に貫き通し… 『秀吉、備前から来た子、気に入ったぞ!格段に大事にせよ』とお言葉を残したとか(^^;;←どんだけ可愛いんですか八郎さま! 8歳にして信長さまをも虜にするその美貌を持ち合わせていた秀家さま… もう天晴れです(^^) 八郎さまは信長さまからお声がかかり、ただの人質から大事な預かり者となり、人質目的だったのにとても良い待遇をいただいたのでした(^^) (同じ人質でも家康さまとはかなり扱いが違いますね(^^;;) やはり美少年はあの時代も武器になったようですね。 預けられた場所は姫路城で秀吉とおねに我が子のように可愛がられ育ちます。 そしていよいよ直家さまの病が重篤になったころ、直家さまは最期に息子に会いたいと秀吉に伝え、秀吉に連れられ八郎さまは父に面会します。 そこで直家さまから『これより後は、この羽柴殿の言葉を父の言葉と思い従うのだ』と伝えられ、八郎さまはその通り秀吉を父のように慕っていくのです。 そして直家さま没後、翌年には織田家の力を借り、10歳の時に宇喜多家の家督を相続します。 (といっても元服もまだなので実権は叔父さまが仕切ってくださっていた) まだ幼い八郎さまはそのまま姫路城で皆に可愛がられながら育ち、13歳で元服され宇喜多秀家さまとなります。 元服にあわせて正式に秀吉の猶子(財産相続権のない養子)になります。 そのため秀家さまはことあるごとに羽柴秀家(豊臣秀家)と名乗っており、秀吉に育ててもらったため、秀吉とは家族的な気持ちが大きかったんだと思います。 秀家さまの初陣は元服と同じ13歳の四国征伐。 戦場でも徐々に頭角を現していき高位な官位までいただいていきました。 秀家さまは14歳の時に2歳年下のお豪(前田利家の四女、秀吉の養女)と結婚します。 お豪姫はとても可愛らしく、美男美女の夫婦だったそうです。 夫婦仲は睦まじく、秀家さまは側室を持たずお豪さまのみ愛され、2男1女をもうけました(^^) しかしお豪さまは育ちのためか贅沢な振る舞いが目立ち、秀家さまも秀吉譲りの派手な振る舞い、金銭感覚は常人の感覚とはかけ離れていたご様子で宇喜多家の財政を圧迫していきました。 (何でも好きなだけ贅沢させる秀吉に溺愛されたら仕方ないと思います) そして秀吉が嫡男鶴松の死を紛らわすためか明国征伐を断行します。 手始めに狙ったのが朝鮮半島、朝鮮の役で秀家さまは全軍の総大将を務め武功を上げます。 しかし途中て秀吉が没し、朝鮮征伐は途中やめになりました、結果疲弊した兵たちと莫大な赤字が残る結果に… そして積もりに積もった不満が爆発し、ついにブチ切れた家臣たちにより、お家騒動勃発、有能な家臣が去っていったり危機もありましたが家康さまの介入でなんとか乗り切りました。 関ヶ原合戦前に石田三成襲撃事件がおこり、秀家さまは佐竹さんと一緒に三成さまを救出しています。 関ヶ原本戦では西軍の副大将として積極的に参加するも、秀秋さまの軍が西軍の大谷軍を攻撃したことにより連鎖的離反がおこり、大谷軍壊滅、その進行方向に布陣していた秀家さまの軍も壊滅的ダメージを受けてしまいます。 秀秋さまの離反を知った秀家さまは『おのれ秀秋!我が手で叩き斬ってやる!!』と陣中に飛び込む勢いであったが、家臣に止められ落ち延びます。 山中で追っ手の者に見つかるも、秀家さまは自ら名乗り出、その気品ある姿、潔さに魅了されたのか追っ手だった矢野という男は、すぐ言葉遣いを改め、あろうことか逃亡の手助けをして自分の屋敷に40日以上も秀家さまを匿ったとのこと、秀家さまが一瞬で人を魅了してしまう御方だったという凄いエピソードです。 そして矢野の手助けで秀家さまは宇喜多屋敷に戻ることができ、お豪と再会を果たします。 秀家さまはもう亡くなったと伝え聞いていたのでお豪の喜びようは計り知れないほどだったと…秀家さまは矢野に大変感謝されたと記録に残っています(^^) 秀家さまはさすがに長居は出来ず、お豪と惜しみながら別れ、(この時が秀家さまとお豪の今生の別れとなったとのこと…) その後、薩摩の島津家へ匿ってもらうが数年後徳川へ引き渡されます。 そして島津や前田家の助命嘆願をうけ、西軍の副大将でありながら死罪を免れ八丈島へ流刑となりました。 当初、八丈島での生活は過酷を極め、(米などは年に数度特別な時にしか食べられない)もとより豪華な暮らしをしていた秀家さまにとっては本当に辛い環境(地震や火山などにも遭う)だったようです。 それを裏付ける握り飯3つの話は有名ですよね… (出された握り飯3つのうちひとつを食べ、残りを子供たちに持って帰ったという逸話←諸説あり) 少しして、前田家から米の支援などの許しが出て援助するも、八丈島には半年に一度しか船がゆかず、充分ではなかったようです。 それでも半年に一度、愛妻お豪から届けられる品や文を楽しみにしていたとのことです(^^) もともと心優しい秀家さまだったので島民とも仲良くなり、苦しいながらも釣りや畑仕事をして過ごしたご様子、そしてあの日から逢うことかなわず八丈島で愛するお豪の死を知ります。 さらに秀家さまは長生きし、同じ戦国時代を生きた戦友たちを見送り、三代将軍徳川家光さま没を見届け、明暦元年11月20日、83歳の得意稀なる長寿でこの世を去られました。 質素な島の生活が長生きのもとになったとも言われています。 こんな壮絶な人生を送った秀家さまを本当に尊び敬い… 岡山の地より黙祷させていただきます。 読んでくださった方、ありがとうございました。 八丈島には秀家さまとお豪の像が建てられ、今では仲良く肩を並べておられます(*^^*) 命日シリーズは 10月14日片倉小十郎公。 10月18日小早川秀秋公。 書いてます(^^)
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