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今日は小早川秀秋さまの命日です。
小十郎のときも長々と書いてしまいましたが、秀秋さまは地元岡山に縁ある武将のお一人で大好きな武将なので、また書かせていただきます(^^;;
本田忠勝さんの命日でもありますが(・・;)秀秋さまを優先させていただくことをお許しください(^^;;
忠勝さんは秀秋さまの8年後、63歳でお亡くなりになりました。忠勝さんについてはみんなよくご存じだと思われるので…
長文注意です‼
秀秋さまについては史料が少なく、図書館などで頑張って調べましたが、後半は自分なりに想像を含めた内容になっていますので悪しからず…
小早川秀秋さま命日。
慶長7年10月18日。(1602年12月1日)
小早川秀秋さまは岡山で木下家の五男として誕生し幼名は辰之助、秀吉の正室おねの兄の子で、秀吉に嫡男がおらず、おねの計らいで幼少より秀吉の養子となり、秀吉とおねに可愛がられて育ちました。
10才の若さで従三位権中納言、左衛門督位をもらい、(金吾中納言)金吾殿と呼ばれていたそうです。秀秋が跡を継ぐかと思われていましたが…
秀秋さまが11才頃に秀吉に嫡男が生まれ、養子自体不要となり、秀秋の立場は微妙なものになりました…
秀吉や今までちやほやしてくれていた者も手のひらを返すように離れていき、寂しい思いをしたようです。
でもそれまでの秀吉の子としての生き方を急に変えれるはずもなく、秀秋さま自身もどうしたらいいのか分からないまま、周りに当たってしまったんだと思います。
秀秋さまの性格については気が短いとか度量に欠けるなど悪い風評も多いのですが、それは育て方にも原因があると思います。
溺愛され何をしても咎めなく自由に育てば我が儘になるのは仕方ないことですし、秀吉の溺愛ぶりは秀頼の記録にもありますが異常なほどですから…
そして行き場のない秀秋さまは12才ごろ小早川家へ養子に出されます。
多くの書物などに、秀秋さまが、あまり優れていなかったと書かれていることがありますが、すべてがすべて実際にあったことかなんてその時代に生きていないのだから真実は分からないんですよね。
小早川の養子に入ったさいも望まれて受け入れられたわけではなかったし、(初め毛利家へ養子の話を持ちかけていたけれど、実際毛利家は迷惑だったため、秀秋さまを毛利家の養子にさせないため変わりに毛利元就の三男の小早川隆景が仕方なく秀秋さまを養子にした経緯がある)
小早川の家臣も突然来た若い秀秋を次の主と認めたくない節があったのは確かで、家臣からも陰口をたたかれたり、信頼関係の築けていない家臣たちに囲まれて過ごしていた秀秋さまのストレスは相当のものだったと思います。
それでも可愛がってくれた秀吉のために役に立とうと、朝鮮出兵の蔚山城の戦いでは16歳で初陣であったが最前線で槍をふるって奮闘した秀秋さま…
敵将を13人も生け捕りにしたり、敵に囲まれ命の危機に陥っていた加藤清正らを無事救出に成功。
多大な活躍の記録を残す。
これで秀吉に認めてもらえる、褒めてもらえると勇み帰還するも…
秀吉に言い渡されたのは…
『大将にあるまじき軽挙』とお咎めを受け…大幅な領地減封…
それを進言した三成さまとの間には禍根を残すことに…
秀吉にもう一度振り向いてほしい、秀吉のために命をかけて戦い、仲間も助けたのにこの仕打ち…
秀秋さまはどれだけ落胆したことだろう…(/_・、)
そこを家康さまがとりなしてくださり減封をなかったことにしてくれました。
秀秋さまの心は秀吉、そして三成さまのいる西軍からは離れていっていたのは確かですよね…
そして助けてくれた家康さまには恩を感じていたはず。
自分の地位を奪った秀頼と、仲の悪い三成さま側につくか…
助けてくれた家康さま、そして親睦深かった清正さんがいる方につくか…
(加藤清正も秀吉死後、西軍から東軍に離反しています。)
関ヶ原での戦、おおかた心は決まっていたように思います…
しかし西軍のみんなにも恩があり裏工作などもあって、簡単に東軍に加担を表明することができなかった…
松尾山は東軍を攻めにくい地形だが、松尾山に陣を敷いてもやはり悩みに悩んだと思います。
わずか19才の若さで決断を迫られていた秀秋さま。
しかし秀秋さまの陣には家康さまが差し向けていたお目付役の存在もあり、最終的には東軍に属することを決断したんですね。
(家康さま側が放った鉄砲に驚いてというのは、地理的問題や乱戦状況からもありえないのでこれは悪意ある創作だと思います…)
秀秋さま軍は大谷さん軍へ攻撃を開始しますが、大谷軍も秀秋さまの離反を予測していたため、兵を温存しており応戦しました、大谷軍の必死の戦いにより初め戦況は互角もしくは大谷軍がわずかに押していたようです、しかし秀秋さま軍の攻撃につられるように4部隊が離反し、大谷軍を強襲、大谷軍はたちまち総崩れになったそうです。
東軍勝利のきっかけとなった秀秋さまの決断でした。
それを周りや後世が裏切り者と罵った…
戦国時代、裏切りなんか日常茶飯事、秀秋さまだけが悪者のように描かれ、本当に残念。
本来ならば東軍に勝利をもたらした大功労者であるはずなのに…
そこは自分より目立った働きをした、秀秋さまをあまり目立たせないよう、功労者にしないよう、裏切り者のレッテルを貼った、家康さまの上手なとこですね。
戦に勝った秀秋さまですが…
しかし自刃した大谷さんやその後捕らえられた三成さまらにたいそう怨まれ、裏切り者と罵られ、勝利者側にいながらも、喜ぶどころではなかったと思われます。
その後、岡山藩を拝領し岡山城主となりますがわずか二年の統治で21歳の若さで突然亡くなってしまいます。
死因について有名な話は、大谷さんや三成さまの亡霊を恐れ狂死した…
などと言われておりはっきりとは分からないですが、一説によると家臣により毒殺された説があり、数ヶ月後に、秀秋さまの実兄も謎の死を遂げているので…どちらも毒殺の可能性があると思います。
秀秋さまについては残っている史料も少なく、殆どが後世に作られた書物に描かれているものばかりで、秀秋さまの本当の姿を伺い知ることは困難なのですが、秀秋さまのように家臣といざこざがあった方は、死後、その反家臣により風評を悪く伝えられたりと本当の姿をねじ曲げられていることがあるのも事実。
秀秋さまは、岡山に来られてのち二年間岡山を統治してくださり、城を整備し、町の近代化に貢献、寺の再建復興、領内の域割りの実施など数々の功績を残してくださり、岡山の民に慕われていたとのこと。
朝鮮出兵後、筑前に戻ってからも農民保護対策を打ち出して、戦で疲弊した農村の復興に力を尽くしておられます。
一般的に多く伝えられている秀秋さまのイメージとその功績は相違があって、一番の疑問点です。(悪領主が民に慕われるのか?)
私は平民農民を大切にし、民に好かれていた秀秋さま、本当はお優しい方だったけれど度重なる裏切りに人間不信になり感情を上手く他人に伝えることが出来きず苦しんでいたのではないかな…と思ったりしています。
本当に心を病んでいたとしても、それには理由があったはず。
家中で陰口をたたかれ、亡くなるまで呪われているだの狂っているだの言われ続ければ心を病んだって仕方ないことだと思います。
それでも清正さんなど秀秋さまが亡くなるまで気遣ってくださった武将もおられました。
関ヶ原のイメージが強くて、後世の創作物に悪いイメージで描かれ、一般の方々に多々誤解されている秀秋さまが不憫でならない…
秀秋さまも時代の流れに翻弄されながらも必死に生き抜いた勇猛な武将のお一人です。
そんな秀秋さまを尊び敬い黙祷させていただきます。
画像は秀秋さまが眠る瑞雲寺の一角、町の中にひっそりと佇むお寺なのですが境内に入るとやはり空気が違う独特な雰囲気を味わえます。
ここには加藤清正さんの尊体も奉られており、秀秋さまが清正さんを蔚山城から救出した恩から親睦の深さが伺えますね(*^_^*)
本日もお参りさせていただこうと思っております。
長い文、読んでいただきまことにありがとうございましたm(_ _)m
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