1.やれやれと溜息をつきたくなる瞬間

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1.やれやれと溜息をつきたくなる瞬間

 西暦203X年。  日本企業が抱えている、人手不足という問題は、ますます深刻化の一途を辿っていた。  そんな悲惨な状況に陥ってしまった要因は、様々だ。  日本企業はかつて、西暦1990年初頭から2000年代前半頃の不況時にかけて、人の採用を大幅に控えた。  失われた世代……ロストジェネレーションと呼ばれる、就職氷河期世代の発生である。  すると当然のことながら、労働力は遅かれ早かれ不足する。最初からそんなことは、わかりきっていたことだ。それなのに、何もしてこなかった。  目先の利益に捕らわれた、先見性など皆無な無能極まる企業経営者による、浅はかな問題の先延ばしによるツケを払う時がきた。ただそれだけのことだよと、ある当事者は吐き捨てるように言った。  俗にブラック企業と呼ばれる、法令遵守の精神に欠けた企業が、ひたすら人材を酷使し、非人道的労働によって潰し続けた。今はその報復を受けているに過ぎないんだと、かつて過労によって心身を病んだ人が、諦めたように言った。  だが、それだけか?  決してそれだけではないのだ。  どこもかしこも、見渡せば劣悪な労働環境が当たり前になっているのが現実だ。セクハラ、パワハラ。過重労働にサービス残業。キリが無い。更にそこに、悪質クレーマーという外的要因が、駄目押しの如く加わる。  人は、容易に壊れ得る。  そして、代わりの人は来ない。まさに、泥沼と化した、援軍無き激戦地そのものだ。  今日もまた、耳障りな声が聞こえる。  ――ここはとある大手のドラッグストア。 「おい! あれはどこだ? あるんだろ? 隠してないで出せよ!」 「ですから、その。あちらに張り出されている通り、あの商品の入荷時期は全くの未定となっておりまして……」  若い男性店員が、中年男性の怒声に脅えながら応対していた。 「関係ねえだろ! 俺は客だぞ!?」  悪質クレーマー。  決して多数ではないが、無駄に声が大きくて目立つという、まさに唾棄すべき存在と言えよう。 「で、ですので」  何だよ神だとでも言いたいってのか? 貧乏神かよクソが! ……と、売る側は仮にそう思っても、決して口には出せないものだ。  大体、お客様は神様ですと言った昔の歌手は、客は神だから媚びろとか、何をされようが我慢しろなんてことは一言も言ってはいない。自分の都合のいいように解釈するんじゃねぇよと、男性店員は心の中で毒づいた。 「お前じゃ話にならん! 店長を出せ!」 「わ、わかりました」  店員が胸に取り付けたマイクに向かって、小声で何かを呟いた。ヘルプを求めたのだった。  それから程なくして、店長と呼ばれた男が現れた。先程応対した店員と比べ、年長の上司といった落ちついた雰囲気を漂わせていた。 「お客様。私が当店の店長、池上です。いかがされましたか?」 「いかがじゃねーんだよ! 俺はあれが欲しいんだ! こっそり倉庫に隠してんだろ? 身内だけで回してるって聞いたぞ! あるなら売れよ!」  鼻息荒くまくし立てる中年男性。  池上と名乗った店長は涼しい顔で、動じることなく丁寧に応対した。 「お客様。そのような事実はございません。掲示してありますが、あの商品の入荷時期や時刻は未定となっておりまして、入荷次第すぐに品出しをするようにしております」 「とぼけんなっ! 嘘言ってんじゃねえよ! 舐めてんのかっ!」  カスタマークレームというものは本来、サービスを供給する側が起こした不手際についての指摘のはずである。  正常なクレームであれば、業務の改善に繋がるという、貴重な機会になり得るものだ。それは何人たりとも否定できるものではない。  だが、世の中は綺麗事だけでは済まないものだ。  このような、サービスの提供側に一片の不手際もない場合であっても、まともに応対せねばならないものだ。  ただでさえ人員不足という状況下で、弱り目に祟り目といったところだろう。 「嘘ではございません。本当に、入荷時期は未定なのです。誠に申し訳ございませんが、ご理解いただきたく……」 「うるせえ! 俺は見たんだぞ! でかいトラックが店の裏に入ってくのをな! 少しは誠意を見せろよ! 誠意ってもんをよ!」  ああ、出た出た誠意だ。誠意ね。あーはいはいと店長は思った。  誠意って言葉は、クレーマー御用達の汚れたものに成り下がってしまったなと溜息をついた。言葉に罪は無いのにね。  そりゃ、商品は一つや二つじゃないのだから、トラックが搬入にくらい来るでしょうよと、悪態の一つでもつきたくなるところだろう。 「それは、他の商品の搬入でございます」  受け答えは続く。  中年男性は、他の客がいようが一向に構うこと無く、まくし立て続けた。  三度、四度、五度とやりとりが続く……。貴重な時間。店員が感じる強烈なストレス。周りの客も、内心舌打ちをしながら通り過ぎていく。  しかし、重苦しい時はやがて、突然止められることになった。 「……お客様。お言葉ですが。これ以上続けられますと、法的措置を取らざるを得なくなります」  これは警告だ。今のうちにやめておけ。店長の言葉には、そういう意味があった。 「ふざけんな! 俺は客だぞ! 客は神なんだろ!?」  警告は無視された。  中年男性はこの一言で、とどめをさしてしまった。自分自身の運命に。 「神じゃねえよボケがッ!」  突然、店長が叫んだ!  それは、中年男性が言葉を失うくらいの剣幕だった。  にこやかで穏やかな、普段怒らないような人が怒ったら、それはもう怖いというものだ。 「てめぇなんかもう客じゃねえ! 今この瞬間から、てめぇは悪質クレーマークラスダブルEに認定だ! ただで済むと思ってんじゃねーぞクソがっ!」  悪質クレーマークラスダブルE。その言葉を聞いた瞬間、まくし立てていた中年男性は、突然顔面蒼白になって震えはじめた。  何故か?  それは、2020年代後半に施行された、とある法律が原因だった。 「悪質クレーマー防止法ぐれぇ、てめぇの空っぽなおつむでもわかってんだろ? 知らんとは言わせんっ! てめぇは糞クレームの常習犯だ! とっくのとうに、ブラックリストに出回ってんだよ! いい加減わかれよコラ!」  悪質クレーマー防止法。  それは一体、どういうものなのか?
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