「いい湯だな」

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「いい湯だな」

 うぉつかれさまでーすと会社を飛び出し電車に乗って帰宅する瀬波穂香。インフルエンザ君も無事に体から去っていき、約一週間分の溜まったスタミナをフルに使えば仕事なんてへのかっぱ。車内に乗っているサラリーマンが寝落ちして鞄を落としかける中、私は人に聞こえない程度、いや少し聞こえてしまうくらいの声量で鼻歌を口ずさむ。フフフフーン。 家に着けば靴を脱いで鞄を玄関に置き、デパートの袋にタオル、下着、あと寝間着を入れて靴の代わりにサンダルを履いて家を出る。。 今日は金曜日。商店街の居酒屋さんにスーツを着た男性陣が楽しそうに入っていく。立ち飲み居酒屋ではすでに机は埋まっており、楽しそうな会話が飛び交っている。テーブルごとに回って話を聞いてみたかったけど、こみあげる気持ちをぐっとこらえながら商店街を抜けて、比較的静かな道へ入っていく。今日は居酒屋に行く予定ではないんだ。 時折バイクや車が通るだけの閑静な道路を進むと右側に大きく「ゆ」と書かれた暖簾が掛けられているのが見える。これだけで頬が垂れてしまうが、その後に待っている極楽を体験するまでは我慢我慢。 頬を二度思いきり叩いて横開きのドアを開ける。 「いらっしゃーい」と番台に座っているお兄さんの気の抜けた挨拶に迎えられて中へ入る。 挨拶は職業によって変わるもの。八百屋さんは威勢のいい声で、お花屋さんは爽やかな声で挨拶をするのが一番いい。そして、銭湯屋さんは気の抜けた声に尽きる。威勢のいい声だと気が張ってしまうし、爽やかな声だと眩しすぎて入れない。ぼそっとした声だからこちらも気兼ねなく入れるのだ。つまり、お兄さんの声ははなまる百点満点。  靴箱にサンダルを入れて木製の鍵を抜き取る。今日の番号は77番。インフル明けで外にも出られて仕事もはかどり早く上がれた。良いごと尽くしだったからダブルラッキーセブン。 「大人一人でお願いします」 「380円です」  ちょうどを出して「女」と書かれた暖簾をくぐる。極楽はもう目の前だ。  服を脱ぎタオルを持ってドアを開ける。ちなみに私は隠さない派。だってどうせ体を洗うときやお風呂に浸かれば隠せないのだから。中に入ると、むわっとする熱気とばしゃんと耳に染み入るお湯の音が反響する。気持ちが昂るが、そのせいで以前盛大にこけた苦い経験をしているのでここは慎重に。  つま先からつけ恐る恐るついた先はかけ湯。まずは1日の疲れという汚れをここできれいに流していく。時々かけ湯を素通りしていく人もいるが、私からすれば全く信じられない。銭湯は単に洗って温泉に浸かるものではない。ここから始まっているのだ。  手桶で首からお湯を流す。この少し暖かい温度のお湯が私の心をそっときゅっと包み込んでくれる。気持ちのいいことこの上ない。  しっかり疲れを流した後は洗い場へ。そこで私を待っていてくれたのは黄色い桶。言わずもがな「ケロリン」の桶。これがあるだけで「あ、私銭湯にいる!」という気分にさせてくれる魔法の桶なのだ。  洗い場で体を洗えばようやくお風呂へゴー。私がまず入るのはジャグジー風呂。強い水圧を肩や腰に当てれば痛気持ちいい快感が何ともいえない。さらに足の裏や太ももの下から出る細かい気泡が体中をくすぐっていく。痛気持ちいいとくすぐったい気持ちで日頃張り詰めている? 心が緩み、自然と瞼が閉じていく。  虚ろな目視界の中にあるおばさんが入ってきて途端に目がぱっちり開く。そのおばさんは私の斜め向かいにある電気風呂に腰を下ろした。 彼女はこの銭湯の常連さんで絶縁体おばさん。あだ名の所以は電気風呂に異様に強いからだ。ここの銭湯の電気風呂は電圧がちょっと馬鹿になっちゃってて、私も一度試したが腰が砕けそうになるほど痛くて座ることすらできなかった。にもかかわらず彼女はどっしりと深く座って気持ちよさそうにしている。恐るべし、絶縁体おばさん。  おばさんを見続けているとのぼせてくる瀬波穂香。お風呂は好きだけど長風呂ができない。ゆるゆるに緩んだ体を起こして一角が外になっている小さな露天風呂へ出る。  屋根の隙間から見える空は夕暮れでオレンジに染まっている。まだ明るい時間なのに風呂に使っている私、至福だなー。  露天風呂は薬草風呂と鳴っており、今日の薬草はラベンダー。少しぬるめのお湯と外のからりとした風が体を温めすぎず、冷ましすぎずの絶妙な温度にしてくれる。  偶然誰もいなかったので足を延ばして開放的になる。すると、隣の男湯の方からおじさんのこぶしの効いた演歌らしき歌が風に揺られて聞こえてくる。今日はまさかのBGM付。 二、三人しか入れないほどのこじんまりした露天風呂に朗々と響く渋い声。おじさんに感謝をしながら私もしばらくお風呂に浸かっていた。  そろそろ頭がぽわーんとしてきたので風呂を上がり、脱衣所へ行く。そこで私は決まって服を着る前に入り口近くにある体重計に乗る。そういえば久しく計っていなかったけど、どうかしら。  少し緊張しながら数字を見て胸をなでおろした。体重は増えているどころか少しではあるが、減っていた。なーんだ、世の女の子がダイエットを頑張っているけど、好きなものを食べていても体重は減るじゃん。  安心した様子が顔に出ていたのか、同じく脱衣所に入ってきた絶縁体叔母さんがこちらをちらりと見た。 「きっと水分が減ったからよ」  おばさんはそれだけ言って自分のロッカーへ向かっていく。  なんという強烈な一言。固まった私は幻の体重を見て、後ろで着替えているおばさんに視線を向ける。  さすがは恐るべき、絶縁体おばさん。  少し、いやまあまあショックを受けた私はいつもより1.5倍時間をかけて脱衣所を出た。これからダイエットしよ……。 「お疲れ様でしたー」とお兄さんに言われて会釈した。 私の視線がお兄さんの横に置いてある冷蔵ケース。私は一瞬だけ買おうか迷ったが、すぐに財布を持ってケースに向かう。おばさんも水分が減ったと言っていたし、今これを飲むのは生きるために必要なこと。 私はケースからコーヒー牛乳を取り出して、番台に置く。 「120円でーす」  お兄さんの前にお金を出し、その場でキャップを外して一気に飲む。甘ったるい液体がカラカラの体内に恵みを与える。やっぱり銭湯上りはこれに限るな~! 私は瞬く間に飲み終え、収納ケースに入れる。本当はもっと飲みたいけど、それは体に毒な気がした。コーヒー牛乳は少し少ないからこそおいしく感じるのかもしれない。 「ありがとうございましたー」という声に送られて外へ出ると、夕方の柔らかい風が濡れた髪を自然に乾かしてくれる。  心も体もすっきり綺麗になった瀬波穂香。 「今度はいつ来ようかな~」  スキップする足取りもいつもより軽やかだ。  そんな極楽蜻蛉な瀬波穂香のある夕方。 〜次回のヒント〜 瀬波穂香に春が来る!?🌸😳
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