水車小屋のリリス

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水車小屋のリリス

 けっしてその霧は晴れることはない。あの世とこの世の狭間に横たわる黄泉の森。死の淵にある者が迷い込み、飢えや喉の渇きから森にある水や食べ物を口にした瞬間から、その身体は呪われ、けっして生きて出ることは許されない。これ、すなわち森は死そのもの。冥界への入口だったーー。  そんな恐ろしい森の中に一軒の水車小屋が佇んでいた。小川の清いせせらぎの中で、長い黒髪をたくしあげた若い女が、リネンの下着姿で洗濯をしていた。乙女の名はリリス。十七年前、あのペルセポネが生かすよう命じた赤子だった。もうすぐ十七歳になるリリスは小鬼のホビーショーのもとで美しく成長していた。 「リリス、洗濯ものなんか、もののけの下女にやらせたらいいのに」  リリスに話しかけたのは、二本足で歩く銀狐だった。その胴体は痛々しいまでに包帯でぐるぐる巻きにされている。カナトスの皇子を狙う刺客に背中を切りつけられた狐のクロノムは、古巣である水車小屋に舞い戻ってきていた。クロノムは楠の木の枝に寝そべり、小さな子供みたいに足をぶらぶらさせていた。 「クロノム、下女だなんて失礼な言い方です。それに、ガマのおば様の秘薬のおかげで、そなたの傷は癒えたのです。あのような深い傷は、(わたくし)の呪文だけではどうしようもありませんでしたもの。それに、そなたは貴族になれるなどと大口をたたいて家出しておきながら、その大ケガの理由はだんまりだし、でも、だいたいのことは判ります。きっと良からぬ企みが知れて、しっぺ返しをくらったのでしょう?」  リリスは額ににうっすら汗をにじませつつも、洗濯棒を持つ手を休めることはしなかった。 「違うよ‥‥‥」クロノムの鼻にかかった声はまるで幼い子供が言い訳するようだった。 「いいのです。別に言わなくてもわかりますもの」 「リリス怒っているか?」 「いいえ。ただ私は、呆れているだけです」  この銀狐は元々はペルセポネの使い魔の一人だった。だが、どういった失態を演じたのかまでは判らなかったが、女主人から(いとま)をもらって、ホビショーを頼って水車小屋にやってきたのだった。だが、気まぐれで、ずるい性格はどうしょうもなく、顔は広いのだが、まるで風見鶏のごとくあっち、こっちと顔を出してはひっかきまわすものだから、リリスは本当のところは、この銀狐が好きになれなかった。 「そなたは本来なら勘当されて当然のことをしたのです。ですが傷が治るまでの間だという約束で、お情けでおいてあげているのです。以前のように大きな顔をしていたら、私が許しませんよ」  菫色の瞳をキラキラとさせながらリリスは厳しい口調で言った。 「やっぱり怒っているーー」 「いいえ怒っているのはお父様のほうです。あのように恩を仇で返すような真似をするとはどういうことです?」 「だから、ただの真鍮が何倍になって返すはずだったんだ」 「お父様たちが掘り出した真鍮の材料を盗むだなんて」 「違うってば、借りただけだ。邪魔がはいらなければ今頃は大金持ちになってリリスに綺麗なドレスだって……。そうだあいつさえ、あいつさえ現れなかったら、俺は今だって皇子でいられたんだけどな」  クロノムはぶつぶつと恨み節を呟いた。  洗濯を終えたリリスは手早く干すと、食事の支度にとりかかった。鉱山からホビーショーが戻ってくるからだ。最近のホビーショーはやけに神経質になっている。年頃になったリリスが森の外に出ないよう何度もいい聞かせ、外から人間が入ってこないよう結界を施していた。一週間後はリリスはの十七歳の誕生日を迎える。だが、ここ数年は誕生日を迎えるたびにホビーショーは嘆き悲しむものだから、お誕生日会はお祝いをするというよりも、むしろお葬式のようだった。  スープを作り終えたころ、一羽のカケスがリリスの元に飛んできた。 「リリス、ホビーショーからの伝言だ。今夜は戻れない。今夜は家の中でじっとしているのだ。くれぐれも狐、もののけ、それに迷い込んだ人間を家に入れてはならない」  ホビーショーが戻らない時は大抵森の外で何か問題が起きている。リリスは妙な胸騒ぎを覚えた。
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