第二話『チョコレートドーナツが甘すぎる』

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第二話『チョコレートドーナツが甘すぎる』

 今日の講義は午後からだからと、ついゆっくりしすぎてしまったおれは、大学への道を慌ただしく走っていた。ゴールデンウィーク明けで、休み気分が抜けきっていないのもあるだろうか。講義が始まるまでにはまだ時間があるのだけれど、その前に寄りたい場所があった。  信号に引っかかって立ち止まる。街路樹の青々とした葉の隙間から射し込んでくる日差しは、少しずつ夏へと向かい始めていて、日に日に眩しさを増していく。  隣の部屋の羽鳥さんとは、初めて会ったあの日以来、顔を合わせれば挨拶を交わしたり、美味しいお菓子があるお店の情報を共有したりなんかしている。今までそういう話をできる相手が居なかったので、ちょっと嬉しい。 「……あれ」  向かい側の歩道を歩く人のひとりに目を留める。ちょうど今、思い浮かべていた彼女の姿が、そこにあった。  長い髪を後ろで束ねて、おれが向かうのとは反対の方へスーツを着て歩いて行く。見慣れない姿は、何故か彼女をおれとは全然違う世界に生きる人間みたいに見せた。  普段何をしているのか、歳は幾つなのか。そういった一歩踏み込んだような話は、したことがない。機会が無かったとも言えるけれど、プライバシーの問題もあるし、そもそも女性に年齢などおいそれと聞けるはずもなかった。 「(……そういえば)」  おれは彼女の、下の名前すら知らない。  知り合ってひと月程度の場合、相手のことをどのくらい知っているのが普通なのだろう。おれと彼女は友人になったのだろうか。それとも、よく話すだけのただの隣人?  繋がりに名前が無いことは、どことなくおれを不安にさせる。脳裏を過る肩書きは、どれもこれもしっくり来なくて、そのことが何故かもやもやした。  考え込んでいる間に、信号はとっくに変わっていて、立ち止まったままのおれを鬱陶しげに避けながら進む通行人に気づいてハッとする。羽鳥さんの姿はもう、ずっと遠くなっている。おれも早く行かなければ。  スマホで時間を確認し、再び走り出した。 ***  大学からほど近い場所にあるドーナツショップにおれは居た。揚げたての香ばしさと、色とりどりのコーティングのあまい匂いで満ちた店内は『プリュイ・ド・ミル』には及ばずとも、なかなかに幸福な空間である。  クリーム色のトレーとパステルピンクのトングを手に、並ぶドーナツを物色する。目当てのものは既に三つほど載せてある。人気商品の、チョコレートが掛かったオールドファッションドーナツ。今日はとある目的のために、どうしてもこのドーナツが買いたかったのだ。 「どれも美味しそうだな……」  今回は自分の分も合わせて買うつもりだけれど、どうにも目移りしてしまう。つやつやとしたグレーズに、ストロベリーチョコレートの甘酸っぱい香り。すべてがおれを誘惑してくる。  結局、生クリームがたっぷりサンドされたクルーラーと、ストロベリーチョコレートが掛かったドーナツ。そして、新発売の文字につられてクロワッサン生地のドーナツを買った。  それからおれは、コラージュ模様の紙袋に詰まったドーナツを抱えて講義を受けた。あまい匂いがするのか、隣の席になった人が何度かこちらをチラチラと見ていたけれど。  講義を終え、おれは教室を出て穂積の姿を探した。特に約束をしていた訳ではなく、わざわざ連絡して呼び出すほどの用事でもない。会えないなら会えないで良かったし、よく考えたら今日のような日に彼が独りなはずもなかったけれど。 「(誕生日、だもんなぁ……)」  毎年祝っていたからと、なんとなく用意してしまったプレゼント。それが先程買ってきたドーナツなのだが……。今頃は、彼女からもっと素敵なものを貰っているかもしれない。  友人が極端に少なく、人付き合いそのものが何故か長続きしないおれにとって、幼い頃からの付き合いである穂積は、特別な存在だ。頼まれなくても生まれた日くらい祝いたい。つまりはただのエゴなのだ。  穂積が行きそうな場所を辿りながら歩くうちに、正門へ向かう通りに出てしまった。やっぱり、もう構内には居ないのかもしれない。おれも帰ろうかと、そのまま正門へと進み始めた時、前方に探し人の背中を見つけた。 「……穂積!」 「おー、清唯。どうした?」  この間とは逆だ。おれが呼び止めて駆け寄る方。穂積は、予想に反して独りだった。 「うん、渡したいものがあって……」  おれの手にあるドーナツショップの袋を見て、なんとなく察しがついたのか、穂積はテラス席を指差し「とりあえず座ろうぜ」と促した。  前と同じ席が空いていたのでそこに座った。おれは袋からオールドファッションドーナツをひとつ取り出し、サバーラップで包んで手渡す。 「穂積、今日誕生日でしょ。おめでとう。……食べたら無くなる程度のものだけどさ、プレゼント」 「え、マジか〜! サンキュな、清唯!」  しかしおれは、ここで大変なことに気がついてしまった。  ティーブレイクにはぴったりの穏やかな午後。けれども肝心の飲み物のことを失念していたのだ。口の中が渇きやすいドーナツを食べるのに、何も無いのはいかがなものか。 「ごめん、うっかりしてた。飲み物いるよね。買ってくる」  近くの自販機まで行こうと席を立ったところ、穂積に引き止められた。 「あー、待て待て清唯。……なんと、ちょうど良く手元にこんなものが」  穂積はワンショルダーバッグの中から、カフェオレの缶をふたつ取り出すと、その内のひとつをおれの分だと言って渡してくれた。 「なんとなく、ふたつ必要になる気がして買ったんだけど、正解だったな」 「……すごい、こんなことってあるんだね」 「なー。以心伝心ってやつ?」  顔を見合わせてひとしきり笑った。穂積はいつもタイミングがいい。 「……しかしよぉ。祝ってくれんのは嬉しいけど……俺、そんなに食えねぇよ?」 「? こっちはおれが食べる分だけど」 「…………まあ、そうだよな。うん」  テーブルに開いたサバーラップを敷いて、その上にドーナツを並べた。穂積は量を見て驚いたみたいだったけど、半分以上はおれの分である。当たり前じゃないか。  一番最初に、穂積にあげたものと同じオールドファッションドーナツを手に取った。ひと口かじれば、ざっくりとした食感とふわっとした食感の混じった生地の優しい甘み。チョコレートの掛かった箇所を食べれば、そこに濃厚な甘さが絡んで更に美味しい。人気商品なだけのことはある。 「お前、そんだけ甘いもの好きでよく太らないよなー」  ふと、穂積が同じくドーナツをかじりながらそんなことを言う。確かに甘いものは好きだけれど、それとは別にきちんとした食事は摂っているつもりだ。お菓子はあくまでお菓子なのだ。 「おれだって何も気にせず食べてる訳じゃないよ。だから、通学はちゃんと徒歩にしてるだろ」 「新しいアパート、歩いて三十分かかんねぇって前聞いたぞ……」 「うーん……まあ大丈夫でしょ。おれ太りにくい体質だし」 「お前……そのセリフ絶対女の子の前で言うなよ?」  女の子、というワードで思い出す。今日は彼女はどうしたのだろう。誕生日なのだしデートの予定くらい、当たり前に入っていると思っていた。  穂積はあまりにも短い期間で付き合う相手が変わるので、いちいち紹介してくれなくても大丈夫だと言って久しい。だから現在の彼女なんて皆目見当がつかないけれど、彼の交際相手が途切れることは未だかつてなかったように思う。 「そういえば、今日は彼女と一緒じゃないの? 誕生日なのに」 「あー……あいつね……今ケンカ中」  彼の言う「あいつ」がどこの誰なのかは、正直さっぱりわからない。とりあえずと話を聞けば、提出期限が近いレポートの存在を忘れていた穂積が、デートをドタキャンすることになってしまい、そのせいで喧嘩になったのだそうだ。 「まあ今回は俺が全面的に悪いし……ケーキでも買って詫び入れようかな、って思ってたとこ」 「そうなんだ……」 「ちょうどいいや。お前そういう店とか詳しいだろ? どっかオススメある?」  聞かれて迷わず『プリュイ・ド・ミル』を薦めた。オススメの店と言ったら、何をおいてもここしかない。すぐにラインで住所を送る。 「ありがとなー! さっすが清唯!」 「このお店は本当に美味しいよ! 保証する。おれ、毎週行ってるし」 「そっか……俺はお前の将来の健康が心配だなー。まあいいや。さっそく帰りに寄ってくわ。ドーナツごちそうさん」  残りひと口を口内に放り込んだ穂積が席を立とうとする。おれはそれを慌てて引き止めた。 「あ、待って穂積! あの、ドーナツもうひとつあげるからさ、もうちょっと居て」 「なんだよ、珍しいな」 「……聞きたいことが、あって」  おれは羽鳥さんの話をした。初めて会った日のこと、今日に至るまでに交わした会話のこと。それから、今朝彼女を見かけてからずっと、引っかかりを覚えている気持ちのこと。 「……友達って、どこからが友達なんだと思う? 何を知っていたらいいんだろう。穂積とは、気がついたらこんな風だったから、よくわからなくて」 「ふーん。……知りたいんだ? その人のこと。仲良くなりたいのか?」 「そう……なのかな。好きなものの話をたくさんできる人に会えて、舞い上がってるだけなのかもしれない。この先、そういう人に出会える可能性を考えて、焦ってるだけかも」  穂積はふたつ目のドーナツをひと口かじり、頬杖をつく。 「……なんにも知らなくても、友達にはなれるだろ。俺はお前の全部を知らないし、お前も俺の全部を知らない。そうだろ?」 ***  幼い頃から、ハンバーグよりもショートケーキが好きだった。かけっこよりも飼育小屋のうさぎを眺める方が好きだったし、サッカーよりも絵を描く方が、好きだった。  そんなおれのことを、周りは「女の子みたい」と揶揄ったし、それならおれは、ひとりぼっちでいいと思っていた。誰にも邪魔されない、冬の雪景色みたいに静かな日常。けれどもある日、その静寂を吹き飛ばすみたいに、おれの中に踏み込んで来たのが、穂積だった。 「なあ、みんなと遊ばねーの?」 「……ぼくはきらわれてるから。男のくせに女の子みたいだって」 「うん、知ってる」 「…………じゃあなんで聞くの」  飼育小屋の中のうさぎがにんじんを食べるのを、じっと見つめていたおれの隣に、同じように穂積は屈んだ。 「おまえが変わってるって言われてるのは知ってる。でもおれはそれでいいって思うんだよな。おれはきらいじゃないぜ! だから、会いにきてみた」  快活な笑みを浮かべる穂積は、どこまでも「男の子」らしいという印象をおれに与えた。勉強は少し苦手みたいだけれど、スポーツが得意で明るく皆の中心に居て、陰で女の子にきゃあきゃあ言われているような、そんな、絵に描いたような男の子。  それからというもの、何かと彼に構われるようになったおれは、以前ほど周囲から遠巻きに見られることもなくなった。教室に居ても息が詰まらない生活。たぶんあの頃から、穂積はおれのヒーローだったのだ。  彼の姿に憧れて、一人称を「おれ」にして、男らしく振る舞おうとしてみたこともあった。けれど。 「おまえにはおまえの良さがあってさ、それはおれがちゃんとわかっててさ、それで……いいじゃん。無理しておれみたいになんて、ならなくていい」  おれだけにかかる魔法みたいな言葉に甘やかされるまま、今に至る。好きだと思うものを、否定も肯定もしない存在というのはある意味一番楽だと言えよう。そうして、おれは穂積が作り出す心地良い日陰で、ぬるま湯のような生活を送ってきたのだ。 ***  おれは穂積の全部を知らない。知ろうともしない。知らない方が、いいこともある。 「人の縁なんてさ、身構えてどうこうするようなもんじゃないだろ。もっと気楽に考えろよ。気持ちは示さなきゃ伝わんねぇし、知りたいことは聞かなきゃわかんねぇ…………って、おい清唯、聞いてるか?」 「あ……うん、ごめん。ちょっと昔のこと思い出してた」 「ったく……お前が聞いてきたんだろが。ほんと独特のテンポで生きてんなー」  呆れたようにため息を吐いた穂積が、またドーナツをかじってカフェオレをひと口。ドーナツの残りはあと半分。 「……おれ、あの人ともっと話してみたいな。ううん、話すよ。……誰かに対してそんな風に思うの、たぶん初めてだ」 「……そっか。まぁ、頑張れよ。お前、人付き合い苦手で困ることもあるだろうしさ、何かあったら言えよ」  人好きのする笑みを浮かべた穂積は、ちゃっかり「その時はついでに美味いもんでも奢って」なんて付け加えた。 「……ありがとう。おれ、穂積が居てくれて本当にいつも助かってる。穂積が友達で、本当に良かった」 「……そうかよ。そりゃ嬉しいな! 俺だってお前と、友達で良かったなって思ってんだぜ?」  そう言った後、照れ隠しなのか、残りのカフェオレを一気に飲み干す穂積。立ち上がって、反対の手に持っていた食べかけのドーナツを、いきなりおれの口に押し込んできた。 「むぐ、っ!?」 「……胸焼けしそうだから、残りはやるわ。ごちそうさん」  口の中のドーナツが邪魔をして返事ができないおれを置いて、穂積はさっさとバッグを背負い直している。 「じゃあ、また。あ、店教えてくれてありがとな」  未だもごもご言っているおれにひらひらと手を振り、穂積は行ってしまった。しっかりとおれの分のカフェオレの空き缶まで持っていかれた。後にはドーナツとおれだけが残される。ささやかな午後のティーパーティーの終わり。  穂積はたまに、おれには本当は気取られたくないのだろうな、という雰囲気がちらつく時がある。そういう時の彼の頭の中は想像もつかないし、たぶんそれは知らない方がいいこと。だからおれは何もわかっていないふりをするし、穂積もきっと、そのことには気づいていない。付き合いの長さと秘密の多さは反比例しないのだ。最近やっとわかった。 「……おれも、穂積に頼られるくらいの人間になれたらなぁ」  フラットな関係でなければ友人関係は持続しないなんて考えは持ってないけれど、本当に大事なことを、自分ひとりで抱え込んでいるように見える今の穂積の姿に、さみしさを覚えない訳ではないのだ。知らないふりは、どこまでが優しさと呼べるだろう。  知らず零れるため息とともに、おれは後片付けを始めた。
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