第一話『出会いはマドレーヌとともに』

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第一話『出会いはマドレーヌとともに』

 大学生になって二度目の春。前期初日の講義を終え、おれは正門に向かう通りを歩いていた。  道の脇に植えられている桜はまばらに花開き、薄桃色の花弁が風が吹く度にひらひら舞った。  今日は、これから帰って部屋の片付けをしようか。昨日荷物を運び終えたばかりのアパートには、段ボールの山があちこちに築かれ、かろうじて動線が確保されている程度の散らかり具合だ。  歩みを進め、学生達が普段、憩いの場として使用しているテラス席が並ぶスペースの横を通り過ぎようとした時、背後から自分の名を呼ぶ声が聞こえた。 「清唯(きよい)! もう帰るのか?」 「……穂積(ほづみ)」  ばたばたとおれに向かって走って来る足音に振り返れば、そこにはよく見知った顔が居た。  奥原(おくはら)穂積。おれの小学校以来の友人だ。気の置けない存在とも言うべきか。 「もし良かったら、俺とお茶でもしません?」  左手にいちごオレ、右手に缶コーヒーをそれぞれ持ち、その手を顔の高さまで掲げて穂積が笑う。 「どうしたの、それ」  ちょうどテラス席の横を通りがかったところだ。話はそこで聞けばいいと、方向転換しながら問いかける。  穂積もそのつもりらしく、おれにいちごオレを手渡しながら、後に続いた。 「いやー、なんでかコーヒー買おうとしたらいちごオレが出てきてさぁ……。どうすっかなって思って、試しにいちごオレのボタン押してみたら、今度は見事にコーヒーが出てきて!」 「へぇ、そうなんだ」 「お前甘いの好きだろ? だから結果オーライかなとは思うんだけどさ」  イスに腰を落ち着けたおれは、缶のプルトップを開け、いちごオレをひと口飲んだ。人工的な甘さが喉を滑り落ちていく。本物の苺の方が、ずっと甘酸っぱくて瑞々しいけれど、おれはこの甘さも結構好きだった。 「ありがとう穂積。美味しいよ」 「なら良かったわ。それにしても、なんでこんな……。自販機壊れてんのかなー」 「事務室に言ったら?」  構内に設置されている物のことならば、それが一番だろう。そう思って提言したが、穂積は少し苦い顔をして、視線を下へ向けた。明るめの茶色をした頭を、困ったように掻いている。 「あー、それは俺も考えたんだけど……。なんて言うか、事務室の人ってさ、いっつもピリピリしてねぇ? 俺ちょっと苦手なんだよな……」  少し考えて、おれは静かに頷いた。確かに、あそこに居る人達は、どことなく冷たげだ。  おれ達みたいな学生にはわからない何かが、きっとあの人達にはあるのだと、遠い世界へ思いを馳せるように目を伏せる。 「まあ、そのうち誰かが報告すんだろ。それよりさ、清唯、確か新しいアパートに引っ越したんだよな?」  穂積の言葉に、散らかった室内のことを思い出す。まだ隣の部屋の人に挨拶もしていないし、やることがたくさんある。 「前のアパートが老朽化で取り壊しだっけ? 大変だよなぁ、大学もあるのに」 「うん、でも引っ越し自体は春休みの間に終わったから。片付けはゆっくりやるよ」 「なんか手伝うか?」 「ううん、あとは荷解きだけだから大丈夫。ありがと」  申し出を断った後で、せっかくなので彼に尋ねておくべきか、ということが脳裏を過ぎった。穂積はとても社交的だから、きっと良い意見が聞けそうな気がする。 「……ねえ、穂積。引っ越しの挨拶ってさ、何を持っていくのが良いと思う?」 「え?」 「まだお隣の人に、挨拶に行けてないんだ。早いうちに済ませなきゃとは思ってるんだけど……」  穂積はポケットからスマホを取り出すと「そうだなぁ」と呟きながら、何かを調べ始めた。ややあって、おれの方に画面を向けて口を開いた。 「無難なところで、お菓子はどうよ? お前甘いもん好きだからチョイスに心配は無いだろうし、洗剤や調味料なんかは好みがあるからな」  こちらに向けられた画面を覗き込む。どうやら引っ越し業者のウェブページのようだ。そこには手土産によく選ばれる物がランキング形式で書かれており、金額の目安も記されていてわかりやすい。 「そっか、なるほど……。参考になったよ。やっぱり、困ったら穂積に相談するのが間違いないね」 「えー、褒めてもなんも出ねぇよ? あーでも、今度お返しにデートと講義の日が被った時、代返してくれたら嬉しい」 「うわ、ちゃっかりしてるなぁ……」  デート、という単語で気がついた。そういえば今日は珍しく独りなのだな。  穂積はいつも女の子と一緒に居る。しかも、おれの記憶が正しければ、腕を組み歩くその人は毎回違う。 「……この間の子とは、まだつき合ってるの?」 「この間、って……どの子だっけ? 経済学部のマキちゃん? 文学部のシオリちゃん? それとも――」 「ごめん、やっぱいい」  本当に誰だかわからない、そしてそれは大したことではない、とでも言うような顔をしている穂積。どれだけ短いスパンで彼女が変わっているというのだろう。おれには正直理解できない。  人当たりが良く、気遣いもできる穂積は、とてもモテる。けれども、どんな女の子とつき合っても何故か長続きしないのだ。  今まで誰とも交際経験が無いおれに、そんな穂積の気持ちを推し量ることなどできやしないのだけれど、ずっと、違和感がそこにある。まるで、ジクソーパズルの空いたところに、合わないピースを無理矢理嵌め込んだかのような。 「い、飯塚(いいづか)くん……!」  突然離れたところから呼ばれて、思考が中断する。顔を上げると、穂積の肩越しに小走りでこちらに向かって来る姿が見えた。 「梧藤(ごとう)さん」  おれが呼んだその人の名前に、目の前でへらへらと笑みを浮かべていた穂積の雰囲気が、少し変わったような気がした。 「えっと……奇遇だね! あ、奥原も……」 「ちょっと〜、由芽(ゆめ)ちゃんてばひっどいな〜! 俺のことはついでな訳?」 「だって、別に用事無いし」 「辛辣っ!!」  梧藤さんと話す穂積は、少しの軽薄さを持つ普段の彼だった。先程感じたと思った剣呑な空気は、やはり気のせいだったのだろうか。  面白くなさそうにコーヒーを飲む穂積を尻目に、梧藤さんは肩に掛けたバッグの中を探っている。穂積に用では無いということは、おれに用事ということになる。一体なんだろう。 「あのね、さっき自販機でミルクティーを買ったんだけど、なんでかこれも一緒に出てきちゃって……」  彼女がバッグから取り出したのは、おれが今まさに飲んでいたいちごオレだった。穂積がくれた物と違うのは、ペットボトルだという点。 「飯塚くん、確か甘いもの好きだったよね? 良かったら、これ……」  言いながらこちらを見た彼女は、おれの手の中にあるいちごオレの缶を見て、目を丸くして固まった。言葉も途中で止まってしまう。なんというタイミングの悪さ。一気に気まずくなった空気を払拭しようと、おれは口を開いた。 「えーと……やっぱり、自販機壊れてるみたいだね。穂積もさっき、コーヒー買おうとしてこれが出てきたらしいんだ」  もう空っぽになっている缶を、見せるように軽く持ち上げる。すると、梧藤さんは勢い良く穂積の方に顔を向け、何やら恨めしげな目で彼を見た。対する穂積はというと、ばつが悪そうに彼女から視線を逸らし、降参のポーズみたいに両手を僅かに上げる。 「……じゃあ、これはいらないよね……」  小さくため息を吐き、ペットボトルに目を落とした梧藤さんはひどく残念そうに呟く。俯いた拍子に、緩く巻かれている髪が揺れた。何故か、既視感を覚える色をしている髪だ。  彼女の姿に、おれはなんだかとても申し訳ない気持ちになり、慌てて立ち上がった。彼女自身に何か原因がある訳でもないのに、悲しませるのは可哀想で。 「あの、梧藤さん。もし君さえ良ければ、それ、貰ってもいい? 家で飲むよ」 「え、でも……」 「おれが甘いの好きなの、知ってて言ってくれたんだし、ありがたいよ」  そっと手を伸べれば、彼女は躊躇しつつもおれにいちごオレのボトルを渡してくれた。受け取ったそれを、鞄を開け中の教材を寄せて作ったスペースへ仕舞い込む。 「無駄になんなくて良かったね、由芽ちゃん」 「……うるさい」  訳知り顔でニヤニヤと笑っている穂積と、拗ねたような顔をしている梧藤さん。ふたりにしかわからない何かが、あるらしい。  肩にかかるくらいの長さの髪を、指先でくるくると弄んでいる梧藤さんを見て、おれはつい「あ」と声を漏らしていた。ふたりが揃っておれを見る。 「いや、ごめん。同じだな、って思っただけ」 「何が?」  穂積の問いに答えようと、おれは梧藤さんの髪を指差した。 「梧藤さんの髪、ミルクティーみたいな色なんだなって思ったんだ」  揺れる彼女の髪に既視感を覚えたのはそのせいか。おれがひとりで勝手に納得していると、梧藤さんが焦っているような、はたまた照れているかのような仕草で髪に指を絡める。 「は、春休みに染めたんだけど、もしかして似合ってない、かな……?」 「? そんなことないよ。きれいな色だと思う」  どうしてそんな風に受け取られたのかはわからないけれど、正直な意見を述べた。すると彼女は突然真っ赤になり両手で顔を覆った。なんでだ! 「……そういうとこ。そういうとこなんだよなー、清唯は」 「どういうこと……?」 「わかんないなら今はいい。てかさ、お前引っ越しの挨拶行かなきゃって言ってなかったか?」 「あ」  そういえばそうだった。穂積の言葉でこの後の予定を思い出したおれは、鞄を背負い、自分のいちごオレと穂積が飲んでいたコーヒーの空き缶を手に持った。  せっかくアドバイスをもらったのだし、帰りにいつも行くケーキショップに寄って、手土産用のお菓子を買いたいところ。穂積が先程言っていたことはいまいちわからなかったけれど、それはまた後でも構わないだろう。 「じゃあ、おれそろそろ帰るね。ごちそうさま。ついでだから穂積の分も空き缶捨てていくよ」 「おー、ありがとな。じゃ、また明日」 「あ、えっと、またね、飯塚くん! 髪、褒めてくれてありがとう……!」  見送ってくれるふたりに手を振り返して、おれは改めて正門へと向かって歩き出す。  お菓子、何を買おうかな。 ***  帰宅したおれは、ドアを開けた瞬間に目に飛び込んでくる段ボールの量に辟易した。やっぱり穂積に手伝ってもらうべきだっただろうか……。  足元に転がる物をつま先で避けながら進み、部屋の隅にひとまず鞄を置く。  今朝、大学に行くのに必要な物を探すためにあちこちの箱を開け、いらない物は適当に放った。そのせいでベッドは色んな物で埋まっていて、今夜はこれを片付けてからではないと眠れそうになかった。 「気が滅入る……」  それでも、面倒ごとにはひとつずつ手を付けていかないといけない。そのひとつが、穂積のアドバイスのおかげもあって、ようやく終わりそうだ。  おれは、鞄を持っていた方とは反対の手に提げていた紙袋に目を遣る。クラシカルなデザインをしたそれの中には、お気に入りのケーキショップで買った手土産用のお菓子が入っている。ちなみに選んだのはマドレーヌだ。  パティスリー・プリュイ・ド・ミル。おれが足繁く通う店の名前。扉を開けた瞬間に香る、店内の奥にある厨房から漂うあまい匂い。おれはそれがとても好きで。今日も、三十分も目移りしながら居座ってしまった。  悩み抜いた果てに選んだマドレーヌは、チョコレートとプレーンがふたつずつ。スタンダードなシェル型のものをバスケットに入れようとした時に、視界に入ったハウス型のマドレーヌ。味は同じだろうけれど、おれは迷わずそれに手を伸ばしていた。だって、家の形なんて、引っ越しの挨拶にうってつけじゃないか! 「やっぱり自分の分も買えば良かったなぁ……」  紙袋の中で食べられるのを待っている(ように見える)マドレーヌ達を見ていると、これを受け取るまだ見ぬ隣人がとても羨ましくなる。うっかり自分のおやつにしてしまう前に、届けた方が良さそうだ。  おれは洗面所に向かい、軽く身なりを整えた後、紙袋を持って部屋を出た。 「(そういえば、隣の人、甘いもの苦手だったらどうしよう)」  チャイムを鳴らしてしまった後で気がついた。尤も、そのような可能性を考えていては、何も贈ることができなくなってしまうのだが。 「…………出ないな」  部屋の中に人の気配はある。というか、壁やドアが結構薄いのか、ばたばたと物音が聞こえるので、在宅は確実だろう。けれども、何かと物騒になった現代だ。知らない人間の訪問を警戒している可能性だってある。  このまま出て来ないようであれば、一度部屋に戻ってメモ用紙にでも一筆添えて、手土産と併せてドアノブにでも掛けておくしかあるまい。  そう思っておれが部屋へと引き返そうとした時、背後で鍵の開く音がした。 「す、すみません、お待たせしま、した……!」  振り返った先に開いたドア。声の主がすぐには視界に入らず、一瞬首を傾げそうになったけれど、視線を下げて彼女を見つけた。おれより頭ひとつ分くらい小さなその人は、ドアチェーンの向こうに隠れるようにしながら、こちらを見上げていた。 「……どちら様、でしょうか」  尋ねる前にドアを開けてしまったことを後悔している。そんな表情を浮かべた彼女は、そう言いながら一歩下がった。開いたドアの隙間が少し狭くなる。 「あ、ええと、突然すみません。おれ、隣に越して来た飯塚清唯、といいます。これ、遅くなりましたがご挨拶も兼ねて……」  おれは慌てて手に持った紙袋を掲げて彼女に見せる。第一印象は大事だと思う。今後のご近所付き合いに差し支えがあるのはよろしくない。 「…………」  返事が、無い。おれの言葉が聞こえていなかったという訳ではないと思うの、だが。  沈黙に堪え兼ねたおれが、何か言おうと口を開きかけた時、彼女はぽつりと呟いた。 「……そのお店……」 「……え? あ、これ! おれがよく行くケーキ屋さんで! 今回買ったのは焼菓子だったんですけど、ここはどのお菓子もほんとめちゃくちゃ美味し――」  お気に入りの店に興味を持たれた嬉しさで、思わず早口で捲し立ててしまったところ――ドアを、閉められた。やってしまった……。  おれが呆然としていると、ドアの向こうで何やらガチャガチャと慌ただしく金属音が響いている。そして「と、突然閉めてしまってごめんなさい!」という声とともに、ドアは再び開かれた。ドアチェーンを外していたらしい。 「……あの、ちゃんとご挨拶、したくて」  気まずそうな、あるいは恥ずかしそうなそわそわとした仕草で、彼女はおれを見上げる。目の前にして初めてわかる、濡羽色の長くてやわらかそうな髪。まん丸の瞳は、昔実家で飼っていたハムスターを彷彿とさせて、心が少しほっこりする。  彼女の髪に反射した淡いオレンジを見て、いつの間にか日が沈もうとしていることに気づいた。 「申し遅れました。わたし、羽鳥(はとり)と申します」  よろしくお願いします、と小さな頭がぺこりと下がる。おれも慌ててこちらこそ、と頭を下げ返した。それから顔を見合わせて、お互い少しだけ笑った。 「そのお店のお菓子、おいしいですよね。わたしも好きなんです。……甘いもの、お好きなんですか?」 「え、あ、はい、すごく!」  あの店も甘いものも、両方。  やわらかな彼女の物腰から浮かび上がるように、焼き立てのケーキみたいなあまい香りが、ふわりと漂う。あの店の扉を開ける時と同じ高揚感めいたものが、おれの心を僅かに震わせた。 「……あ、そうだ。少しだけ、待ってていただけますか」  そう言うと、羽鳥さんは部屋の中に入る。何かを探すような音が奥から聞こえ、五分ほど経った後、ドアが開いた。  彼女は小さめのバスケットを持っていて、チェック柄のペーパーナプキンが敷かれたそこには、シェル型のマドレーヌが詰まっていた。 「これ、先程焼いたものなんですけど……良かったら」 「え、いいんですか!? ありがとうございます!」 「はい、ええと……お近づきのしるし? です」  程良いきつね色のマドレーヌは、口にする前から美味しさを証明しているかのような、完璧な見た目だった。先程彼女から香ったあまい匂いは、どうやらこれだったらしい。おやつには少し遅い時間になってしまったけれど、帰ったら早速食べよう。 「それじゃあ、おれはこれで失礼します。こっちが挨拶に来たのに、お土産までいただいてしまってすみません」 「いえ、こちらこそご丁寧にありがとうございました。マドレーヌは、少し作りすぎてしまったのもありますから」  たとえそうだとしても、彼女が偶然マドレーヌを作ったタイミングで訪問ができたのは、やはりおれにとって幸運だった気がするのだ。 「羽鳥さん、いい人だったな……」  これならば今後のご近所付き合いも安泰だ。おれはひとりで勝手に頷く。  ローテーブルの上を軽く片付け、昼間梧藤さんから貰ったいちごオレのペットボトルを鞄から取り出す。 「いただきます」  丁寧に両手を合わせて、おれはようやくマドレーヌを手に取った。  ふわふわとさくさくの中間くらいの、しっとりとした歯ざわり。微かに薫るリキュール。生地にはオレンジピールが練り込まれているらしく、噛むと爽やかな酸味が生地の甘さと絶妙に調和した。つまりは美味しい。とても、美味しい。 「……でも」  なんだか少しだけ、寂しいような、心の奥がざらつくような、そんな味のする、マドレーヌだった。  これを作った彼女――羽鳥さんのことを、もう少し知りたいかもしれない。そう思わせるような、味だった。
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