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潜行
「まあ、私たち三人の中で誰が乗りに行けるかといえば和香ちゃんだけど、これって相手の思考空間に入るようなものよ」
泉が腕組みをしつつ和香に言う。
「ダイジョブダイジョブ。現世の自分をあちらの世界に封印しテ、第2階層まで降りて来ルだけだカラ」
和香は事も無げに笑って答えた。
「簡単にいいますが、自らを封印するなんて、少し度合いを間違ったらこの世での和香ちゃんの存在を消滅か希釈してしまうことに成りかねないですわよ」
長身の小百合が腰を折って、和香を覗き込んだ。
「小百合お姉ちゃま、ウチのこと心配?」
「それは当然です」
「泉お姉ちゃまモ?」
「当り前じゃない」
「えへへ」
和香は黒い大きな帽子の鍔を下げて顔を隠したが、その頬は少し桜色に染まっていた。
三姉妹の間に、しばし沈黙が訪れた。
「ん――あのね、和香のことを心配しているけど、信頼していない訳じゃないから。任せたわよ。礼金貰ったらお肉たくさん食べていいからね」
泉は指先で和香の鼻さきをちょんと触った。
「やっタ~!じゃあ任サレタ!あ、これ持っテて」
和香は斜めかけの小さなポシェットからスマホを取り出すと泉に手渡し、黒いレースで縁取られた傘を広げた。
傘の内側には、サンスクリット文字で封印陣が書かれている。
くるくると傘を回すと、和香の立つ駅のホームに傘に書かれた封印陣と同じものが映った。
和香の唇が何かを唱える。
すっと和香の姿が薄くなり、周辺の風景と同化し見えなくなった。
泉は一瞬軽い立ち眩みがして、ふと我に返った。
「私、ここで何してたんだっけ?」
手に持った和香のスマホをじっと見る。
「これ、誰のスマホ?、あ、そうだった和香のだ!」
「お姉さま、私も危なく和香ちゃんのこと忘れるところでしたわ」
「あの子、もうあっちの世界に入ったみたいね」
二人は列車の来ない、山林と化した線路跡地をじっと見つめた。
和香はくるくると回していた傘をゆっくりと止めた。
和香を包んでいた真っ黒な空間が、次第に光を放ち始め、形を作り田園地帯の風景となった。
闇が光を放ち始めると、ラジオのボリュームが次第に大きくなるように、周りの音が聞こえ始める。
和香は小さな駅のホームに立っていた。周りには、何人かのヒトがいて列車を待っているようだ。
草色の背広を着て、煙草を吸いながら列車の来る方向を見ている男がいた。
丁寧に何かを包んだ風呂敷を下げた和服姿の年配の女性もいる。
セーラー服を着た女学生が二人、黒い鞄を両手で前に持ち、楽しそうに話している。
二歳ほどの男の子を前抱きにした若い母親もいた。
小さな駅のすぐ横を通る、車一台がやっと通るような細い道の遮断機が、カンカンカンと音を立てながら降り始めた。
ホームにいる人たちは、いっせいに列車の来る方向を見る。
オレンジ色の2両編成からなる列車がゆっくりと駅のホームに入ってきた。
ドアが開くと、降りる人はおらず、ホームに立っていた人々が乗り込んだ。
女学生たちの後に和香が乗った。
列車の中はワックスの臭いがした。和香の黒い小さな靴が踏んでいるのは、木製の床だ。
その床はじっとりとワックスがしみわたって黒ずんでいた。白いシャツを着たまま転倒でもしようものなら、真っ黒に汚れてしまうだろう。
和香はたたんだ傘を左手に持ち、列車の中を進んだ。ホームで立っていた2歳ほどの男の子とその子を抱いていた母親が座っている向かいに腰かけた。
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