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二十二
「何階ですか?」
後藤の問いに男は、五階を、と答えた。同じ階だ。最上階のボタンを押す。
この、どうということのない、ごくささやかな幸運は、この夜、後藤に起こったいくつかの秘めやかなもののひとつとなる。占い師を生業とする彼がそれを予期しなかったことを
、彼自身はのちにまるで気にしなかった。なぜなら、占いをはじめオカルトのたぐいを後藤はいっさい信じていないからだ。
母親に引き連れられて館山じゅうの家庭をまわり神の名を知らせたが、出ていった父親が戻ってくることも兄が精神病院を出ることもなかったし、その母親も交通事故であっけなく死んだ。もともとたいして信仰心などなかった。神様に台なしにされた人生を占いで取り戻しても罰は当たるまい。
そんな後藤が、もしもいるのだとしたら、との前提条件をつけて感謝を捧げるアクシデントが、起こる。
「ワッ!?」
突如、視界に闇がぶちまけた。
狭い箱が漆黒で満たされる。
不意のできごとにあわてる後藤とは対照的に、男は、停電のようですね、と落ち着きはらった低音で言った。
小さくて大きな光が闇底に現れる。長身の男が手もとで懐中電灯をつけたようだ。
失礼、と後藤の前に入り込む。
「非常用の設備がまったくありませんね」
エレベーターのボタンをすばやく確認し、彼はすみやかにライトを消した。再び、眼前へ墨が流し込まれる。
「あの、つけておかないんですか、懐中電灯」
遠慮がちに後藤が尋ねると、男は丁重に答えた。「すみません。充電が切れるといけないので」
申しわけなさげだが、はきはきとした受け答えだ。後藤は、はあ、と怪訝な色を隠さない。どうも妙な男だ。
二十秒か三十秒か。しばしの沈黙。
物音の限られた暗闇では時間のたちかたが遅い。というかわからない。エレベーターが止まってから五分はたったような気もするし、まだ二、三分も過ぎていない感覚もある。復旧までどれぐらいかかるのだろうか。
場をもたせようと後藤は口をひらいた。
「まいりましたネエ。台風のせいでしょうかネ」
「まだ風はそう強くありません。ただ、建物がだいぶ古いようなのでガタがきているのかも」
男は冷静に回答する――そう、回答だ。まるで機械のように。
突然の事態、真っ暗な密室に閉じ込められたというのに、少しもうろたえるそぶりがない。後藤はべつの意味で男への興味が湧いていた。
「沖縄には仕事で?」
話の水を向ける。男はポロシャツ、チノパンというラフな格好だが、観光客の身なりには感じられなかった。行動もひとりのようだが、沖縄なまりは皆無。いや、むしろ――
案の定、彼は、ええまあ、とあいまいに答えた。
「東京からですヨネ?」
ですか、ではなく断定の口調に、男がやっと感情らしきものをのぞかせた。「はい」
その色をよりはっきりと後藤は引き出しにかかる。「ご出身は北海道?」
「ええ、そうです。そちらも道内から?」
いいえ、私は館山です、と笑い流した。
本人も気がついていないようなわずかなイントネーションからつけたアタリは正解。だが、言葉づかいで見抜いたことも相手に見抜かれたようだ。仕事のように占い仕立てで本性に迫っても通用しないタイプとみえる。予想どおり、いや、想像以上に手ごわいか。
「東京はずいぶんと長いみたいですネ」また断定調で問う。
「そうでもありません、ここ五年ばかりです。ずっと各地を転々と」
男の返答に後藤は、おや、と首をかしげた。
さっきの学生たちはオカマへの免疫のなさからして、おそらくどこぞの田舎から――それぞれ東北・北陸・中国地方辺りとみた――上京してきた地方出身者。一方、この男は、自分のような変態性欲者を見ても眉ひとつ動かさなかった。相当期間の東京在住者とみたが。ならば新宿界隈の人間か。しかし後藤の鋭い嗅覚は、短時間のうちに男を正常と嗅ぎわけている。
何者なのだろう。いろいろな意味でわからない。これほど分析しかねるケースはめずらしい。
「新宿の二丁目辺りはよくいらっしゃいます? ”新宿の義母”って耳にしたことは?」
「いえ。”新宿の母”なら」
知らない? オカマを見て無反応の人間なら知らない者はないはず。その程度には名がとおっているとの自負が後藤にはあった。
モグリか。沖縄県まで逃げてきたのに、つい危険をおかしたくなるではないか。
「”新宿の母”とかいろいろあやかって、”新宿の義母”・相原泉の通り名で稼がせてもらってまして」
こんなん出ましたけど~、と流行りを声まねしてみせる。はは、と男は愛想笑いを返した。
硬い。声も目も笑っていない。見えなくても見える。
占い師は手品師や詐欺師と同源だ。客をいかに誘導できるかが腕の見せどころ。この男は後藤の仕掛け、つまりユーモア混じりの”自己開示の返報性”に、勘づき警戒しているようにみえる。
同業者? いいや。口八丁、手八丁で渡り歩く業界だ。こんな思わず抱かれたくなるような隆々の筋肉など要るものか。
さまざまの可能性を後藤は探る。
非常時にも沈着で、どこかかしこまった物腰。警察? 違う。警官特有の横柄さ、底意地の悪さはない。そういう意味でも、裏社会、ヤクザ稼業に手を染めているタイプではない。だが。
後藤は感じ取っていた。――この男に血の匂いを。
言葉どおりの意味ではない。もっと具体的にいえば、この男は人を殺したことがある。
いや、まだないのかもしれない。だが、その必要が生じれば躊躇なく殺人をおこなえる。それも、ひとりふたりではなく、何人であろうと。
そういう目をしていた。そういう気配をまとっていた。
にもかかわらず、後藤はエレベーターの”閉”ボタンを離した。
悪い癖だ。危険な男にゾクゾクし、魅入られてしまう。この悪癖のおかげで、ヤクザ者に追われているというのに。
後藤は深く、息を吸った。
覚悟を決め、みずから核心と死へ迫る。「お仕事――私が目的ですか?」
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