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三 暗号
『暗号文を解読してください』
例の暗号化された修正・小半理論のデータそのもののことではない。それとは別に「データを復号するパスワードの暗号文」が発見されたのだ。
それは小半教授の手書きとおぼしき紙片で、五十五文字のひらがなとそれらに重ねて描かれた五つの図形、十五文字の英数字からなるものだった。手がかりの登場に初めは沸いた研究グループだったが、またしても消沈することになる。暗号が解けないのだ。
天才数学者の残した暗号文にしては子供でも読めるひらがなの羅列に、発見当時は鷹揚に解読作業へとりかかった。当日中には解ける、いや小一時間あれば、いやいや五分もあれば、と考えた者さえいた。小半助教授が暗号理論を修めていたとの情報はなく、素人よりは多少専門知識に明るい程度の助教授が作成した暗号文など、専門家に依頼すれば平文も同然と。
その認識の甘さを彼らはまもなく思いしらされる。
古典的なシーザー暗号などの換字式から、転置式・頻度分析・RSA・辞書攻撃とさまざまな暗号技術を駆使した結果、文字列の並びに明らかな法則性があることは早い段階で判明した。だが、どれだけ解析しても意味のある平文に変換できない。そう、パスワードは、たとえば「ejotY5」のような無意味な羅列ではなく、「password」のように意味のある言葉であると本人が併記している。それがミスリードでないかぎり、なんらかの意味をなす単語・文が得られなくてはならないのだ。解読グループは国内の他大学、海外の大学などの研究者、民間のセキュリティー企業、とつてを広げ頼ったが、どの組織も五十五の文字・五つの図形・十五文字の英数字から平文を導き出すにはいたらなかった。どこもそれぞれに感染症対策に追われており、人手も資金も足りなかった。
Cincoは、新薬・エクリプセの有効性と直面している問題を政府の担当者に説いてまわり、資金提供を嘆願した。が、成果の挙がらない研究に配分する余裕はない、とけんもほろろ。エクリプセの担当者は内心で、徳川綱吉につぎ込むからだろう、と毒づいた。愚策ぶりが生類憐れみの令に通じるのは皮肉なものだと。
目の前に鍵がぶら下がっていながら手が届かない。
開発の断念を突きつけられた責任者の教授は、だめもとで起死回生の手に打って出る。それが前述の「暗号文を解読してください」との告知だった。
AI開発の鍵が「修正・小半理論」となった経緯、および、助教授の残した暗号文の解読がなされなければ研究はついえる危機に瀕している状況を明かし、五百万円の賞金を懸けた。今回の新型の病原体のごとくにわかに出現した、問いと栄誉と報酬へ、我こそはと一般の人々が腕をまくった。
ただ実際のところ、研究グループがわは、さしたる期待はできないとの冷ややかな見立てでいた。世界レベルのその道のプロにあたって解けなかったものが、市井の知恵ごときに攻略できるわけがないと。
それでも、座して敗北を受け入れるよりは藁にもすがるがごとくの行為であろうと行動を起こしたいとの気持ちがあったことと、アマチュアには専門家がおよびもしないまったくの盲点、着想があるのではとのかすかで一縷の希望を持って、助力を募った。
かくして、中学生やただの一般人にすぎない葵や拓海のような挑戦者が、日本じゅうのあちこちで名乗りをあげるにいたる。
かすかでにやつくような笑みを浮かべる年上の友人に、拓海は「千尋さんは興味ねーの? オレらのなかで一番ハマりそうじゃん」と尋ねる。
見上げる若者に、そろそろ若者という歳でもなくなってきた彼女は軽く口をすぼめてみせた。
「最初はね。職業がら、関心のある分野でもあったし、腕試しに。だけど、ケンブリッジだのハーバードだのGoogleだのの規格外の頭脳の持ち主が、五百万ぽっちのはした金じゃとても請けない程度の難度とわかって速攻リタイア」
肩をすくめ小さく手を上げてプログラマーは首を振る。
「でも千尋さんって、ものすごい超スーパーハッカーなんでしょ」おじさんも言ってたじゃん、ね、と仲間うちで最年少の葵が、千尋と伯父・博を座卓前から見やる。
なにその私がすごく頭悪そうに聞こえる修飾語、と立花千尋は苦笑いするが、伯父のほうは背を向けたまま「ああそうだ、スーパーハカーだ」と投げやりに肯定した。
最年長の彼は、机上でなにか電子部品を手にはんだづけをしている。
「まあ、ハッカーとしてのスキルに一定の自負はあるほうだけど」
ハッカー≠クラッカーの意図が、女子中学生と、それほどPCに造詣が深いわけでもないのになぜかPCショップでバイトをしている金髪頭、このふたりには伝わっていないのだろうな、との思いがよぎりながら、千尋は答える。
「チートスキルでさ、ちょこっと見ただけで『こんなのナニナニでしょ。ちょっと考えればすぐわかるじゃない』なんてドヤ顔で当てたらかっこよくない?」
歳は半分だが脳の容量は五分の一しかなさそうな提案を、JC娘はさらっとしてくれる。私はノイマンか、とおおよそ彼女に通じるとは思えない揶揄を千尋は返した。
「あのね、世のなか、あんたの大好きなライトノベルのようなご都合主義まる出し、フィクションじみた天才なんてそうそういやしないの」
嘆息しつつ、ふたりのもとに寄ってしゃがむと、件の暗号文の解読に挑戦する動画を止め、検索窓に「cinco ハッシュ プロトコル」とすばやく打ち込む。
一、二秒でラップトップPCのモニター上へ、公開鍵暗号だのMD5だのといった小難しい言葉や数式、図などが表示された。
「ところでこれを見て。こいつをどう思う?」
「すごく、意味不明です」
葵と、オタク仲間特有のテンプレ的やりとりを即座に交わして、千尋は満足げに検索結果のひとつをクリックした。
先ほど表示されていたYouTubeの動画と同様、「修正・小半理論」の暗号文の解読を試みるブログサイトが現れる。ただしその水準は桁違いだ。
暗号文空間、離散対数問題、DES、SHA-1、(h^e)^d ≡ h (mod n)といったわけのわからない専門用語・記号・式・図形が画面上を埋めつくす。
日本語でおk、と葵が先に言ってしまったので、拓海は「千尋さんはこれ全部わかんの?」と問うた。
まさか、と笑う彼女は、半分がいいとこよ、と答える。
半分もわかるのかよ、と拓海は、原像計算困難性がどうとかの文章と彼女の顔を見比べ、への字に口を曲げた。
「このブログで触れてる暗号知識、たぶん、その道の研究者から見たら入門レベルぐらいじゃないかな」
「これで!」
「高等教育機関で専門にしているお偉い教授たちが、ちょっとやそっとじゃ無理って言ってるものを、私ぐらいのいちプログラマーが解決するなんて夢物語なわけ」
二、三回のキー操作でブログのウィンドウを閉じ、素人の拓海にもわかる(そして葵にはやや厳しめの)解説動画を再開させた。
「それじゃオレらがいくらがんばっても五百万は無理ゲーってことじゃん」「あたしは、転生したらレベルが一だったけど実は最強でした、の可能性に賭けるよ」そんな、少女のよくわからない意気込みやその友人のぼやきを尻目に千尋は立ち上がり、まるでそこが定位置であるかのように博のわきへと戻る。
窓ぎわに置かれた手作りのように無骨な木机、その周りには、ときおり差す初夏の陽光で陽だまりができており、ぽかぽかと心地いい。窓の外には丘谷の地名が示すとおりの起伏に富んだ、坂道と緑の多い宅地が連なっている。雲間から漏れる午後の陽ざしをつかの間、気持ちよさそうに浴びていた。
こんな好天に、仲間で集まりながらも屋内にこもりとろとろしたひとときに身をゆだねる。もったいなくもぜいたくな連休の過ごしかただな、と千尋は、見当外れの当て推量をしそれにツッコミを入れている弟・妹ぶんや、兄貴ぶんというには離れすぎな父親世代の博に目を細める。
見慣れない機器の修理か組み立てに没頭する横顔は、(比較的まだ)若い女性の視線も、背後で姪子たちが繰り広げる「量子コンピューターとかがありゃ瞬殺なのにな」「えっ、魚取りの人のパソコン、そんなチートアイテムなんだ?」「それ漁師」との気の抜けるやりとりも意に介さない。彼はただ、黙々と作業にいそしむ。
「平穏無事だねえ」テスターで抵抗値を測っている博に、間延びした声が言う。「平々凡々。すべて世はこともなしだね」
左手に立つ千尋とは逆の右がわ、まるで耳もとで語りかけるかのようなつぶやきに、博は見向きもせず言葉を返す。「天国が留守なのにか?」
動かしたのはロータリースイッチをまわす右手だけ。首も、それどころか口さえも閉じたままだ。
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