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二十 三十年前の帰省
匂いというものは不思議で力強い。
一歩、旧き生家に踏み入った瞬間、博は思いしらされる。
住んでいたときにはめったに意識する機会のなかった、建物の匂い。
十年の単位で脳の片すみへ追いやり忘れていた、ありし日の記憶・質感・実感。
嗅覚は、わずか〇・五秒ほどのうちにすばやく、鮮明に、それらを復元する。
生物の備えるメカニズムを理屈では理解していても、脳はぞっと鳥肌さえたたせる。
灰白色の土壁が全周を木で編まれた、純和風の家屋。
ひと足、ひと足ごとに思い出が――物心がつきオタク趣味に目覚めた七〇年代、テレビゲームを知りのめり込んだ八〇年代、ひとり立ちするもなにかとやらかしては舞い戻った九〇年代――百の花が次々といっせいにひらくがごとく、脳のシナプスをめくるめく。
「この時間、まだ全員いるだろう。その間にひととおり話して了解を取りつけておきたい」
二十代になったばかりの自身を先頭に、四人の仲間を率いて手狭の廊下をきしませ進みゆく。ドーパミンとノルアドレナリンが今にも頭蓋骨から噴き出しそうで、博は、雄たけびをあげたくなる衝動を必死に抑えなくてはならなかった。
ちくしょうめ、こんな日が三十年も昔に訪れようとは。想像できたか、三十年前の俺よ。
古くさくて懐かしい、小さなおさげを結いバンダナを締めた後頭部へ問いかける。
「パートIII公開前を盛りあげる余興にしちゃあ」内心が聞こえたかのように、三十歳年下の己が首をめぐらせた。「早すぎ、やりすぎだぜ」
父親の歳さえ追い越してしまった壮年は、固く結んでいた口もとをかすかにゆるませてみせた。ああ、すまない。
後ろには、よくも悪くも個性豊かな顔ぶれ――明らかに一般人を卒業している図体のこわもてと、腰下まで届く髪を無造作にたらした少々めんどうそうな女、スーパーヤサイ人ふうの色で立たせた髪のわりになよっとした若い男、そして、この中で一番無害そうで一番天然な、フリーダム同士で首と目と口がきゃっきゃとせわしない女の子――こんなイロモノ連中をそろいもそろえ、朝の忙しい時間に突然押しかけてしまって。
ざれごとめいたわびを博は、寸暇もなく心中へめぐらせる必要があった。
一歩一歩のたびに飛び込む、玄関そばの台に置かれた黒電話、柱に打ちつけた小釘にかかる一九九〇年七月九日の日めくりカレンダー、ビニールひもで縛り台所入口に積まれた古新聞の束。
食卓のある居間から聞こえる、食器の音や、今週から期末テスト前で部活がなくなるなどとの、妹と父親の話し声、その居間に面した裏庭で懸命に吠える雑種。
台所からもれる、毎日食べていた弁当にいつも必ず入っていた自家製のたくあんの匂い、何年も使い古したスリッパのぱたぱたと歩きまわる足音。
「聞いてくれ、ふたりとも。あ、おふくろもちょうどいいところに」
とんでもない客が来やがった、と呼びかける若い自分に続いて覗き込んだ和室から同時に向けられる、六つの目と三つの顔――いや、縁側に前足を乗せ、引きちぎらんばかりにリードをぴんと張り吠えたてるゴンを忘れては機嫌を損ねられる。あれは猫のように気まぐれで繊細な犬で――
そう、つまりは、いっときたりとて油断をしてはならない状況下に彼はあった。
こんな、感という感がどうしようもなく極まってならないときなど、半世紀を重ねた人生のうちでも数えるほどで、この涙腺という難儀な器官が今や危機的状況にあり、それはすなわち、リーダーとしての体面が根幹から揺らぎかねない失態を演「わあっ、子供のときのママだあ!」
だしぬけに能天気な歓声が、博の思考をフリーズさせる。
「うお、いきなり生JC陽子さんきた」もうひとつの若い駄言が駆ける。
「なんかそれエッチすぎ」脳内がシャットダウンしかけている中年男をよそに、
「セーラー服陽子さんやっべ。ヤバすぎて草生える」二十一世紀青年と
「ええ〜、ママだよー? もしかしてたくみん変態?」少女は大はしゃぎだ。
お、俺の……感動の対面……。
「本物のおじいちゃんとおばあちゃんも写真どおりだし! てか、部屋とかもまんま動画で見たとおりで草」
「つーか、家、古っる! こんな江戸時代クラス、アニメでしか見たことねえし」
「真っ黒ゴロスケ出ておいでレベル」
「や〜い、おまえんち、おっばけ屋敷〜」
「たくみん、ひっど。あたしのおじいちゃんちだよっ」
「悪りー悪りー。おっ、あなたトロロっていうのね! って犬だし、あれ!」
「夢だけど!」
「夢じゃなかった!」
「昭和、ヤバいねっ」
「昭和、クッソヤベえ」
食卓の妹と父親はぽかんと見知らぬ少女と若者を見上げ、焼き魚の切り身を乗せた皿と箸を手にした母親、振り向く若き博のふたりは目をしばたたかせて立ちつくし、博以下、未来から訪れた三人の大人は、引きつる顔でぴしり固まる。
なんというのか、その――時間が、止まった。
博は己に問うた。いや、叱りつけさえした。
なんで連れてきた。
十数年越しに立ち入った実家の居間、三十年ぶりに対面する当時の家族という、あとにも先にも比類するものはない稀有な感慨を、そのふたりは、風速五十メートルぐらいの速度でこっぱみじんに吹っ飛ばしてくれた。
十秒か、二十秒か。
感の鈍い二十一世紀青年少女も、さすがに場違いのテンションだったことに気づいたか、地獄のように気まずい沈黙に飲み込まれる。
二十五秒ぐらい経過してようやく、博の母親・艾草節子がおもむろに尋ねた。
「ええと、どちらさまかしら?」
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