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一九九〇年
一 犬は驚き庭駆けまわる
家のどこかで悲鳴があがった。
艾草博が顔を上げる。同時に不藁剛はすばやく立ち上がり、博の確保した六畳間から廊下へと飛び出す。
博の向かい、ちゃぶ台を挟んでノートPCの向こうに座る立花千尋が、不藁さん、と眉をひそめ問う。鋼鉄のような肉体は応ぜず、重々しい、しかし俊敏な身のこなしで、女の声が聞こえた方向へ駆けだす。
建て増しを重ねた家屋の床を踏み抜かんばかりの疾走に、博と千尋は遅れて不藁に追随する。
ただごとではない叫びだ。博は、トイレ前で愕然と立ちつくす姪を険しい顔でただす。
「どうした、葵!」
開け放った木戸のわきで、彼女は「おじさんっ……」声にならない言葉を絞るように漏らす。姪の横に立つ不藁と母・節子の当惑した顔が博にも伝染する。先ほどの、のっぴきならない悲鳴と、先んじて駆けつけたふたりの表情がどうも一致しない。
怪訝な面持ちの伯父に、葵は半泣きで告げた。
「なんか穴っ! 穴開いてる!」
「穴……?」
なんの話だ、と聞き返すよりも先に彼女は声高に訴えた。
「う◯こ! 死ぬほどう◯こがある!!」
う◯……こ?
ますますもって意味がわからず首をかしげていると、なんかあったの、と遅れて小走りに追いついた二葉拓海が、鼻をつまみ言った。
「うわ、なにこれ、くっさ」
「――つまり、汲み取り式を見たことがなかったと」
とりあえず居間へ移動した一同は、あの大ぶりの樫の座卓につき葵の話を聞いた。
「あるわけないよっ! あんな下にいっぱいう◯こがたまってるトイレなんか! ねえ、たくみんっ」
興奮気味に同意を求められた拓海は「あー、オレも実物はねーわ」と話半分に、庭先で落ち着かない様子の雑種犬へかまうのに忙しそうだ。葵は「え、たくみん、あの江戸トイレ知ってるの!?」と驚きと非難の混じった声をあげた。
「なんだエドトイレって……」
「江戸時代みたいなトイレだから江戸トイレ」
困惑気味の博に、葵はまるで、常識でしょとでも言いたげな口ぶりで答える。
「オレは『ゴゴ』で見た」GIOを倒しにエジプトに行く話、と拓海は漫画作品の名前をあげる。
友人の証言を引き出した葵は、なにか勝ち誇ったように、ほら、やっぱり江戸時代とか東南アジアのやつじゃない、と胸をそらした。
エジプトは東南アジアではないし、なにやら侮蔑的ニュアンスが混じっているように聞こえて博は、葵、とひとこともの申そうとする。が、祖母の「葵ちゃんの時代には汲み取りのおトイレはないの?」との質問でさえぎられてしまった。
「ないない。令和だよ? 江戸や昭和じゃあるまいし」
当然のように首を振る葵に、ここはもう平成だし、二十一世紀にも汲み取りのトイレはごく少数だろうがどこかにまだ残っている、と博は訂正を入れようとし、やめた。
家が建てられたのはたしかに戦前の昭和初期だし、そもそも論点はそこではない。
「和式自体、あたしダメなのに、あんなう◯こトイレなんて絶対ムリ! だってう◯こだよ? トイレにう◯こがあるんだよ?」
「いや、そりゃまあトイレだしな……」
「女子がう◯こう◯こと連呼するのはちょっと……」
黙って聞いていた不藁と千尋が、げんなりと苦言をていした。
「あたし、トイレは近所のコンビニか公園に行く!」
「え? どうしてコンビニに?」
首をひねりつつ、節子は孫娘に続ける。「この近くにコンビニエンスストアはないし、公園も少し離れたところよ?」
多少遠くてもかまわないと考えた葵に、残念なお知らせが追い打ちをかける。
「公園のおトイレも汲み取り式だし、それに……公衆トイレってあまりきれいじゃないから結構臭うわよ」
目と口をひらいて葵は固まる。犬に声をかけるかたわら、トイレ騒ぎに我関せずの拓海が彼女の目の前で手を振ったが、反応なし。まばたきさえ忘れてそうな勢いだ。
――「あれ」より汚くて臭いトイレ?
葵には、およそ人間の使用するものに思えなかった。
「あたし帰る!」
「おわっ!?」
すっくと少女は立ち上がり、ちょっかいを出していた男友達はのけぞり、犬は驚き庭駆けまわった。
「葵っ、どこ行くの?」
居間を出る葵に千尋が問うと、彼女は「荷物取ってくる!」せっかく押さえた八畳間を早くも引き払いに猛然と足を踏み鳴らした。
「ちょっと待ちなさいっ、葵っ」
一九九〇年での母親代わり、姉貴ぶんの千尋があとを追うのに任せて、博は不藁とともに残り、やれやれと首を振った。
「あらまあ、葵ちゃん、帰っちゃうの?」
お昼、葵ちゃんが好物って言ってたごま団子、作ろうとしてるのに、と節子はとまどい年上の息子に尋ねる。博は、大丈夫だ、そのまま作ってやってくれ、と重ねて首を揺らした。
「夜にまた詳しく話すが、そんな簡単にほいほい行ったり来たりできるものじゃないんだ、あのタイムマシンは」
その辺は口を酸っぱくして言ってるのに全然理解しようとしない、と愚痴をこぼす。おまけに似たようなのがもうひとりいるし、とのジト目を、葵の消えた奥のほうを見やって気をもむ金髪頭に差し向ける。視線を感じた拓海は「えっ、なに、博さん?」と愛想笑いを作り振り返った。
「なんでもない」博はあきらめ顔でそっぽを向く。
この場にいない艾草兄妹を思って彼は口もとを曲げた。
妹・陽子は、休み時間にわざわざ校外へ出て学校そばの公衆電話から家へかけてきて『あのヒトたち、アタシの部屋へ勝手に入ったりしてない!?』と母親に確認するわ、
兄・博――この時代の若いほうだ――は、未来組のPC等に興味津々で見せろ見せろとごね(不必要に未来の情報を過去の人間へ触れさせたくなかった)、そのくせ自分のPC-9805は、留守の間に触らせたくない、と妹同様、大々的にプライバシーを主張し、バイトへ出る際にはPCの起動ディスクを持って行くわ。
――まあ、あれとかあれとかあれの、あまり他人に見られたくないファイルがいろいろとあるのは未来博もわかっているので、とやかくは言わないでおいた。
ちなみにMS-DOSの起動ディスクは二〇二〇年から持参しているので――なにかの役にたつかもしれないと捨てずにずっと持っていた――起動はできるし、千尋にかかれば、用意してきた機器でたやすくFDもHDDも中身を見られる。それは具合が少々よろしくないので、よけいなことはしないでおくに越したことはない。
ともかく、艾草兄妹は葵・拓海と違ったベクトルでめんどうだ。
身内に曲者がごろごろおり(しかもほとんど血縁者、というかひとりは過去の自分自身だ)、また、対コロナ計画のキーパーソンの小半助教授も、攻略のめどがじゅうぶんたっていない。なにせ、対キーパーソンの葵があんなだ。絵の練習はまじめにやらないわ、トイレがどうのこうのとくだらないことでへそを曲げるわ。まるっきり内憂外患だ。
あまりに今さらすぎて我ながら気が引けるのだが、ここはやはり、仕事がら権謀術数にも少なからず長じている彼とよく相談し、改めて作戦・計画を練りあげるべきでは――
博は、座卓の対角に座す不藁を、盗み見るように一瞥する。
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