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七
少し風のある夜だった。
一九九〇年七月上旬。本格的な夏を前に、湿り気とどんよりとした空模様をともなうも、おおむね過ごしやすいといえた。取りたてて変わったところのない穏やかな夜、民家の庭先。
しかし、今にも降りだしそうな空のもとに立つふたりの男は、この家に異質の存在であり、さらには世界レベルに異質の現象を披露しようとしている。
数メートルの距離をあけて向かいあう中高年の男たち。縁側に固まる一家には、決闘でも始まるかのような構図に映った。
実際、博には少なからずその意図があった。手にする家電はさしずめガンマンの拳銃か。相手は丸腰だが卑怯ではあるまい。もし本当に殺りあうのだとしたら、〇・五秒で間を詰められ次の〇・五秒であばら骨だか内臓だかを砕かれる。人間兵器相手にこんな悠長なものはなんのアドバンテージにもならん。真っ向勝負では勝ち目などない。だから――
「あら? 博、それ、コンセントにつながないといけないんじゃない? 延長コードを持ってきましょうか?」
「大丈夫だ、おふくろ。それよりおまえら、スマホを出すなと言ってるだろう」
「いーじゃん。あたしもたくみんも、ちゃんとみんなに見えないように隠してるよっ」
「オレ、タイムリープで消えるとこはまだ未見なんだってば」
あ、出てくるとこは猫で見たけど、と青年は決定的瞬間をとらえようと携帯端末をなぞる。
「まだ未見」は重複表現だ、とひとりごとのようにつぶやき、博は左腕の端末を見る。あと二分と五秒。
不藁の顔はあいかわらず彫りもの、能の面のごとく変化なし。リーダーへの信頼の表れか。たとえば、タイムマシンの設定を誤って間違える可能性もあるわけだが。
神様いわく、
『この時空のむらは注意したほうがいいよ。不安定でかなりシビアなんだ』
へたをすると、数十分先の時空へ送るつもりが、数十日だったり数十年だったり、あるいは数千年から数百万年先と極端に変動幅が大きいのだそうだ。恐ろしい話だ。
――なにが恐ろしいかといえば、人間は過ちを犯す生きものという事実だ。
俺もうっかり間違ってしまうかもしれん。
今、利用しようとしている時空のむらの危険性については不藁も承知している。だからこそ万が一の事態も考慮し名乗り出たのだろう。その「万が一」が、故意に引き起こされる可能性まで果たして彼は想定しえているのだろうか。有事の際にはいかなる事象も起こりうるものとして行動せねばならんわけだが、どうなのだ、不藁3佐?
意志の強さの表れる自衛官の双眸へ、無言で問いかける。返答は、もちろんない。ただ秒読みを開始するとの宣言のみ。
九十秒――ドラマや漫画、特に推理小説ならば、怪しい人物は概して敵ではない――七十五秒――いかにも裏切りそうな者ほど実は頼れる奴だったというパターンだ――六十秒――現実は往々にして正反対。怪しい奴は実際そのとおりだし、裏切りそうな人間は普通に裏切る――四十五秒――何度、辛酸をなめたか。半世紀近くもどっぷり創作物に浸かっているとつい錯覚しがちだ――三十秒――不藁は、残念ながら経験上、裏切るタイプだ――二十秒――ずっと目をそらしてきた。己にだましだましで今日まできた――十五秒――だが、もはや本能と経験則の警告に目をつぶり耳をふさぐわけにはいかない。
「十秒。九、八、七、六――」
すまん、不藁。
「五、四、三、二――」
さらばだ。
「タイムマシン」からマイナスイオンの生ぬるい風が噴出する。
ただの微温風に扇がれた屈強の巨影は、
「ああっ!」「ウソッ!?」「うおおっ!?」「すっご!」「タイムリープ、キタ―――――!!」
保土ケ谷、艾草家の庭にて、一瞬のうちに蒸発した。
まっすぐに右腕を伸ばし、送風口を手向ける壮年の男。
その目は、しかし、正しきおこないに手を染めた者らしからぬ、えも言われぬうつろな色あいで、ただ、宙空を見つめるのだった。
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