第1章

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第1章

「くあ~~っ、疲れてきたっ、たっ、たっと」  伸びをしながら思わず変な言葉を発してしまった。  3か月おきに訪れる繁忙月の真っただ中、そろそろ1週間の疲れもたまり始める木曜日の夕方に、澤井いづなはいつものオフィスで書類と格闘している。 営業社員はみな出払っており、周りには気心知れた同僚しかいないため気の抜けた声が出てしまう。夕方といっても夏前の6月は日が長く、窓の外はまだまだ働けと言わんばかりに明るかった。 「なに、いづな様でも苦労する難題ふっかけられてんの?」 「いづな様はやめて下さいって。難題じゃないんですけど、こうも次から次へと色んなところから依頼が来ると終わりが見えないっていうか」  声をかけてきた隣に座る大賀(おおが)さんは、入社した当時の私を指導してくれた少し年の離れた先輩で、入社した時は少し怖かったが1年経った今では困った時の頼れるお姉さんのような存在だった。私のことを「いづな様」と呼ぶのは、おっとりした見た目によらず仕事はてきぱきこなす私を、愛をもってからかっているから…だと思っている。 「そうね、この時期は仕方ないわね。彼らも必死に数字を積もうとしてるわけだから」 「あの…すみませんそんな中、ちょっとよろしいですか…」  大賀さんに声をかけるのは4月に入社したばかりの新入社員2人組だった。大賀さんはその面倒見の良さから、新人の教育担当のような立ち位置を任されており、しばしばこうして業務の不明点を質問されていた。  新人ちゃんのギモンを差し置いて雑談するわけにもいかず、私はデスクトップモニターに目を戻す。見ると、外で商談中と思しき営業社員からの新たな見積もり作成依頼メールが飛んできていた。 「…もちっと、もちっと…」  もうちょっと、の意で小さく言葉を発して、自分を鼓舞して仕事に戻る。  広告代理店の営業アシスタントという仕事は特別好きという訳でもないが、嫌いだ、苦しいと思うこともない。というか、事務仕事、総合職と一般職でいうところの一般職とはこんなものだろう、と思う。周りの人も良くしてくれて会社の居心地も悪くないし、トータルで見てまずまず気に入っている。大手の広告代理店ともなると一般職でもお給料はそこそこ良いし、平日のプライベートも確保しやすい。職場に対して大きな不満を持ったことはなかった。  ノックのように飛んでくるメールを打ち返し、ようやくひと段落ついて明日こなす分の作業準備を進める最中に、自分のスマートフォンが振動するのを感じた。今夜は彼と外で夕食を食べる約束をしているので、連絡が来たのかもしれない。就業中はプライベートの携帯電話の操作は禁止、なんていうおカタい会社でもないのだが、それでも一応ささっと画面を確認する。  『予定通り19:30にはお店に着けそう。いづなは?』  ふむ。忙しい彼のことだから少しくらい遅れるかなと思っていたが、今夜は大丈夫そうだ。 『分かった。わたしも時間通りに行くね』  短く返信し、今日の仕事を畳む作業に戻る。今夜は彼との3回目のデートだった。
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