ある男

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ある男

男の目に写るもの全てが、残酷な現実であった。 いや、目に写るものだけではない。 鼓膜を震わす音、鼻腔を掠める匂い全てがだ。 絶望に打ち拉がれた男は、虚空を見つめたまま一歩づつ歩み寄る。 眼下には、何ものをも食べ尽くしてしまいそうな激流が大口を開けて待っている。 男は辛うじてこの生を繋ぐ境界線ぎりぎりの所で、一瞬何かに思いを馳せた。 止め処なく次から次へと溢れだす大粒の涙。 「うわあああああああああああああああああああああ〜〜〜〜〜〜!!!」 この生が許す限りにおいて、心の奥底から獣のような咆哮を絞り出した。 許さない、決して許されることではない。 だが、それ以上に自分自身を許せない。 男の絶望が決意に変わった時。 その大口を開けて待ち構えている激流に、男は身を躍らせた。 ※※※※※※ そのホームレスは、一人愚痴をこぼしていた。 「ったく、何でえ、さっきのつれないカップルは!あれだけ大量に買い物できるぐらいの金があるんなら、ちょっとばかし恵んでくれてもいいだろうがよ!!」 忙しなく行き交う人の中で、このホームレスの耳障りな愚痴に一瞥を投げかける者など、ほんの一握りであった。 夕方の帰宅ラッシュでごった返す駅構内。 殆どの人たちにとっては、全くの他人の厄介ごとに首を突っ込むほど暇ではない。 突如として、そのホームレスの前に何とも幻想的な光りが差し込んだのだ。だが、限られたエリア、その場所、その空間だけだ。 ホームレスは、先ほどの罵声をぴたりと辞めその異様な光景を食い入るように見つめている。緩やかに辺りを包み込む謎の光。 だが、その謎の光りの出現はほんのひと時であった。 急ぎ足で行き交う利用客には、その記憶に留まるほどのものでもなかった。しかし、そのホームレスは気づいていた。その光りが消えた空間にさっきまでいるはずもなかった男性が所在無げに佇んでいることを。 そして、もう一人この男性の出現に気付いている者が。 突然、女性の叫ぶ声が駅構内に響き渡った。 流石に時間に追われながら家路を急ぐ者たちも、一旦立ち止まり振り返る者や、辺りをきょろきょろ見回す者など。 ドンッ! 「きゃあ!痛ぁ〜〜!」 一人の老婆が突き飛ばされた。 突き飛ばした男の手には、女性もののバッグが握られている。 そして、その後方から再び、叫び声が。 「だ、誰か〜〜!私のバッグ!そいつ、引ったくりよ!!」
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