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おそらくはその誕生日をきっかけに、俺たちは本物の恋人同士になった。「付き合う」とはどういうことなのだろう。結局のところ、それは単なる口約束に過ぎない。その意味では、俺たちは二次会のカラオケのあのときから恋人同士になったわけだが、このときが、最もお互いにお互いの愛情を感じ合うことのできる至福の時間が流れていたのだと思う。
そもそも一緒にいるだけで幸せだし、二人きりで九州に旅行に行ったりもした。柔らかい口付けを交わし、本能のままに抱き合った。俺たちは、アングレカムの花言葉の通り「いつまでも一緒」だった。だからこそ、彼女との関係を終わらせてしまうことを、当時の俺は想像することさえしていなかった。
「なあ、俺たち、もう終わりにしないか?」
切り出したのはーー俺からだった。
就活を始めたあたりから、会う時間がだんだんと減っていった。倦怠期というのも重なったのかもしれない。就職してからはさらにお互いに忙しくなり、また、新たな出会いもあり(と言ってしまうと、俺の最低ぶりがここで明らかになってしまうけれど)、彼女との約束の断り文句を考えることすら億劫になっていたのだ。
「……どうして?」
彼女は、それをすぐには納得しなかった。律儀の方向性を間違っているのかもしれないが、最後に俺は彼女と食事に行き、その後、バーに行った。最初の食事の時点で彼女は何かを悟っていたのかもしれない。二人の空気は、海底に沈められたみたいに重たく、息苦しかった。
「リナのためだよ」
嘘を言った。すべては自分勝手なわがままだ。しつこく「会いたい」と言ってきたり、浮気を疑ってきたりする彼女が面倒臭くなったのだ。これを「若さ故の過ち」と言ってしまえば、反感を買うことはわかっている。けれど、俺は仕事ができたし、顔も悪くない。いくらでも女と遊ぶことはできたから、一人に絞るのは勿体ないな、と思っていたのだ。
「今の俺じゃ、リナを幸せにすることができないと思う。仕事が忙しいから会う時間もないし、お互いの人間関係だってそうだろ。それなら、リナは俺よりも長く一緒にいられる相手を選ぶべきだ」
「それならさあ……」
そう言ったきり、リナは物欲しげな視線を俺にぶつけた。俺はその視線の意味を何となく察したが、しかし、それには気付かないふりをした。
「……どうした?」
彼女とは長い付き合いだ。あるいは、俺がとぼけるように眉を上げたことで、すべてを見透かしてしまったのかもしれない。やがて、彼女は諦めたように首を振った。
「何か、初めて今までユウトと付き合ってきた女の子の気持ちがわかった気がする」一人言のようにつぶやき、リナは微笑を浮かべた。「イケメンだし、面白いし、優しいし。……時々ロマンチックだし。みんな、底無し沼に落ちていくみたいにユウトの中に沈んでいったんだろうな」
リナは少し離れたところにいるバーテンダーを呼んだ。「ジンライムをお願い」
そして、リナは提供されたお酒を見つめて笑った。リナは時々、意味有り気な不思議な笑みを浮かべる。
「でも、ギムレットを飲むには、まだ早すぎるね」
「……?」
「知らない? レイモンド・チャンドラーって小説家が書いた作品の、結構有名なセリフなんだよ。それにしても、面白いよね。ジンライムとギムレットって。材料は一緒なのに、ステアするかシェイクするかで、名前もその意味も変わってくるんだよ」
「その、意味?」
俺の問いには答えず、リナは儚げな微笑を浮かべたまま言葉を紡いだ。
「ユウトは昔から、しつこい女は嫌いでしょ。うん、わかった。ユウトがそれを望むなら、私はそれを受け入れる。人の足を引っ張っぱる重りになることは、本当に愛しているとは言えないもの」
言うが早いか、リナは立ち上がり、そよ風のように静かにバーを後にした。俺はそれを黙って見送った後、わけもわからずギムレットを一杯飲み(彼女がその名を口にしたから、どんなものか気になったのだ)、お会計を済まそうとした。
「お会計は、すでにいただいています」
バーテンダーは、苦笑混じりに言った。俺がトイレに行ったときに、ギムレット以外の分の代金はすでにリナが支払っていたのだ。俺はため息を吐いた。
(俺はもう、男として見られていないってことか)
自嘲気味に鼻で笑って首を振り、俺はギムレットの分のお金をバーテンダーに手渡した。すると、彼は微笑を浮かべて言った。
「『長い』お別れは、『永遠』のお別れではありません。長い闇には、必ず終わりがありますよ」
これではまるで、俺の方が振られたみたいではないか。しかし、単なる心の保身かもしれないが、俺はその方が嬉しかった。苦笑し、「ありがとうございます」と言った。
花言葉のように、お酒にも言葉があることを知ったのは、その後のことだった。それを踏まえて考えてみれば、俺がギムレットの代金だけを支払ったのは皮肉かもしれない。そして、ジンライムのカクテル言葉は、「色あせぬ恋」。彼女がギムレットではなくジンライム を選んだのは、あるいは……。
「やられたな」
俺は花言葉をプレゼントし、彼女はカクテル言葉を贈ってくれた。お互いに愛を贈り合った。男とは身勝手な生き物だと思う。それからじんわりと、彼女に対する愛情が蘇り始めた。ラインのトークルームを開き、しばらく眺めていたが、そっと閉じた。自分勝手な事情で別れを告げておくだけでも最低な行為なのに、わがままに「復縁したい」と申し出たとしたら、リナはきっとそんな俺に愛想を尽かしてしまうだろう。いや、むしろリナからすれば、その方が良いのではないか。完全に愛想を尽かしてしまった方が、彼女は先に進めるだろうから。正解はわからない。そもそも、あのとき気の迷いから別れを告げた時点で、答えは間違っていたのかもしれない。
つう、と涙が頬を伝った。
そして、俺はもう一度ラインを開き、彼女にメッセージを送った。すると、あっけらかんとした様子で返事が返ってきた。そのままの流れで、俺たちは再び会うことになった。
「久しぶり」
「うん。久しぶり」
入ったのは、俺が別れを切り出した時と同じバーだった。しばらく沈黙が続いていたが、俺は意を決して尋ねた。
「どうして、俺なんかと会ってくれたんだ?」
一瞬の間が開いた後、リナは答えた。
「信じてたから」
その一言に、心臓を撃ち抜かれた気がした。彼女の贈ったあの言葉が、胸の内にふわりと浮かんだ。そうか、と呟くと、リナは続けた。
「たしかに、お互いに忙しかったし、ユウトも遊びたいんだろうなって思ったよ。だけど、子供が楽しそうにしているのを優しく見守ってあげられるのが、大人の女性ってものでしょ」
「ごもっとも。俺は子供だったよ。反論なんてできない」
「だけど、ユウトって、しっかりとお付き合いをした相手に対しては一途だってことも知っていたから、私の方から縁を切るのは、短絡的すぎるかなって。だから、一回だけは許してあげてもいいかなって思ったの」
「……悪かったな。本当に、悪かった」
それから、俺たちは小さい頃から付き合い始めた大学生時代の話に華を咲かせた。しかし、会話は盛り上がったものの、最も大事なことを忘れてはいけなかった。
「あのさ、リナ」
「何?」
「俺がさ、アングレカムをプレゼントしたときのこと、覚えてる?」
「忘れるわけないじゃん。あのとき、本当に嬉しかったんだよ」
「また花を渡すのも悪くないかなとも思ったんだけど、同じものを贈り続けるのは、ちょっと面白みがないとも思うし。……すみません」
お願いします、と言うと、訳知り顔でバーテンダーはカクテル を作り始めた。俺がお酒の名を口にせず注文したとき、それを作ってくださいと、あらかじめ言っておいたのだ。そして、俺はそのお酒をそのままリナにプレゼントする。
「サイドカーのカクテル言葉は、『いつも二人で』」
「贈る言葉は、あのときと同じなんだね」とリナは笑った。
「一度過ちを犯した人間は、結構強いんだぜ。まあ、もちろん、信憑性はないけどさ」
「四度目はないからね」
「四度目?」
「最初に飲み会で告ってきたとき、アングレカムのとき。そして、今。次は四度目だよ」
あのときも含めてたのかよ、と俺は尚更申し訳ない気持ちになった。
「ああ、わかってる」
俺はリナの目をまっすぐに見つめた。
「俺はもう、絶対にリナを裏切るようなことはしない。だから、俺と、付き合ってくれないか?」
「本当に、裏切らない?」
「四度目は、ない」
俺たちは、しばらくの間じいっと見つめ合った。そして、リナはにっこりと笑って頷いた。
「仕方ないな。そこまで言うなら、付き合ってあげてもいいよ」
その返事がもらえた瞬間、俺の表情も綻んだ。
「ありがとう。本当に、ありがとう」
かつてのアングレカムは若々しく溌剌として咲き誇っていた。そして、このサイドカーは、グラスの縁がバー店内の光を浴びて、艶やかな光沢を放っていた。
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