手帳

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手帳

パラパラとページを捲る。姉に気づかれてはいけない。父との思い出を懐かしむように、最近のものから目を通していく。 ──今日で、退職。手渡されたのは、花束だけ。呆気ないものだ。 「お父さん、退職されたばかりなんですね?」 「……そうよ。弁護士には定年制度がないから、迷ったようだけど」 「……ご高齢、ですからね」 「七十を過ぎれば、そう言われるかもね。わたしから見れば、現役を退(しりぞ)くには、もったいない若さだったわ」 正直、父の詳しい年齢すら、わたしは知らない。手帳には他にも、その日あったことが日記のように短い文章で綴られていた。 そんな中……。 ──妻を亡くした。彼女との別れは、筆舌に尽くし難い。こうして文字にするのも、あの日の別れから、いったい幾日が経過してからのことだろう……。 三年前、正妻である姉の母親が亡くなった事は、数ページをかけて書かれている。よほど深く愛されていたのだろう。……正妻は。 ページを捲る手が、五年前の六月で止まる。そこに、書かれていた。わたしの母の事が。 ──慕っていた人が、いなくなった。別れは、いつも突然だ。 胸がズキリと痛む。誰がどうとは、一切書かれていない。ただ一言、その人との別れを(いた)むとだけ。 (もしかして、父は……) ふとページの左隅、罫線(けいせん)からはみ出るように書かれた文字に目が止まった。 ──今日、やっと娘に会えた。 たったの一行。なのに、その一行に、今まで(こら)えていた思いが湧き水のように溢れ出す。 父と、親子の時間を過ごしてみたかった。物陰からそっと見守るのでも、一言二言の会話で終わってしまうのでもなく。 手帳を抱えて泣くじゃくるわたしに、姉は困惑しながら声をかける。だけど、姉のどんな言葉も、今のわたしには届かない。だって、姉には理解出来ないもの。わたしにとって、この手帳がどれほど特別なモノなのか。この一言をわたしがどんなに求めていたかを。 手帳を汚すわけにはいかない。持っていたハンカチで、涙を拭う。これは大切な宝物だから。 念の為、数年分を(さかのぼ)って読む。けれど他には、折りたたまれた五年前の新聞紙が挟まっているだけで、母については何一つ書かれてはいないようだった。 『慕っていた人』か。所詮、その程度の関係だったのだ。父とわたしの母は。 「お姉さん。わたしに、この手帳を譲ってください。わたしが欲しいのは、これだけ。お父さんの遺した、このだけなんです……!」 腕の中の手帳を力強く抱きしめ、姉に懇願する。 「手帳が欲しいだけ? アンタ、何言ってるの?」 姉は呆れた顔でわたしを見る。だけど怯まない。わたしは、もう一度繰り返す。 「わたしが欲しいのは、お父さんとの思い出だけ! この、の手帳が欲しい。ただ、それだけなんです!!」 姉は、信じられないという顔で、わたしを見ている。この人には、きっと分からないだろう。お金よりも、もっとずっと大切なモノがある事を。 「を譲ってもらえるのなら、わたし。お父さんの遺産を全て放棄しても構いません!」 「ほ、本当なの?」 ゴクリと唾を飲む音が聞こえた。わたしは笑顔で頷く。何も知らない姉に向かって。
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