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血
相続放棄の手続きは、思ったよりもほねが折れた。
「ふう……」
義兄から手切れ金として、五百万円を手渡された。お金とは本当に、ある所にはあるものらしい。
(でも、良かった……)
腕の中の茶色い革の手帳を見つめて思う。母とサトエが父に愛されていなくて、本当に良かった。姉がサトエの顔を知らなくて、本当に良かったと。
五年前死んだのは、わたしの母だけでは無い。姉のサトエも、同じ日に死んだ。わたしが、姉のサトエを殺したから。
サトエは今も、実家の庭に埋まっている。
(バカな女……)
母が亡くなった日、姉のサトエはわたしに向かって言ったのだ。
自分には、本当の父親が居る。父は自分を迎えに来てくれるの。自分は父に愛されているから。父親の居ない、アンタとは違うんだと。
手帳を握る手に、力がこもる。
……欲しかった。
父親と呼べる存在。副島ダイサクとの繋がりが。たとえ、姉サトエの命と引き換えにしてでも。わたしは、それが欲しかった。
子供の頃から、わたしと姉には大きな差があった。姉の父、副島ダイサクが来る度、わたしは庭の納屋に隠れるようにと、母に言われた。
納屋の中は、半分が農機具で埋っている。真っ暗で、息の詰まるような空間だった。もしも、誰かが外から鍵をかけてしまったら。永遠に外へ出られないのではないかと、いつもビクビクしていた。
終わりのない恐怖と、湿っぽい土の匂いが、わたしの心を支配していく。あの恐怖は、二人の居なくなった今でも忘れる事が出来ない。
副島ダイサクの姿を初めて見た日。それは、ある夏の暑い日だった。冷房のない納屋は、息をするのも辛いほど暑苦しい。少しでも涼もうと、納屋の扉を開けた時。隙間から見えたのだ。黒い人影が。
そして、玄関の灯りを浴びた茶色い革靴。それは、わたしにないものの象徴だった。
父と呼べる大人。おかえりと、優しく出迎えてくれる家族。手入れの行き届いた靴は、彼の豊かな暮らしぶりを伝えていた。あの色を、あの革靴を。わたしは忘れた事がない。
副島家のお屋敷で玄関に並べられたままの革靴と、記憶のなかのそれは、全く同じものだった。
わたしを納屋に隠す度、ごめんねと、母は言った。あなたの存在を知られてしまったら、あの人はもう。わたし達に会いに来てくれないの。そうしたら、わたし達は、生きていけないのよと。何度も、何度も。幼いわたしに、母は言い聞かせた。
(でもね、母さん。あの人は、気づいていたんだよ?)
「うふふ……」
駅に向かって歩きながら、青々とした空を見上げた。わたしの心は今、この空のように晴ればれとしている。
母の葬儀の日、わたしは初めて副島ダイサクと会話した。姉の、父親に。わたしにとって、幸福の象徴である『茶色い革』の手帳を握りしめながら、その人は言ったのだ。
「会いたかったよ。私の、もう一人の娘」
そう、優しく笑みを浮かべながら。血の繋がりすら定かではない、この、わたしに向かって。
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