日常

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日常

教室の喧騒には耳を貸さず、秋山浩二は机の脇にかけてある鞄に手を突っ込んだ。 重い教科書たちの中から、目当ての文庫本を取り出すのに、二秒もかからなかった。 片手にすっぽりとおさまる文庫本。 去年の誕生日に父から貰ったプレゼントだ。当時はその味気なさに、肩を大きく落とした。しかし今は学校での暇な時間を潰すのに一役買っている。 本を開くと、活字の集合体が秋山の目に飛び入ってきた。 その言葉たちを理解しようとはせず、秋山はただ文字を頭に流し込んでいく。 読書をしているフリ。これが秋山の毎朝の日課だった。 学校に友達がいない秋山は、いつもこうして本を読むフリをして朝の騒がしい時間をなんとかやり過ごしていた。 それが秋山の平穏だし、心の安定をはかるものだった。 しかし最近、その平穏を崩そうとしている輩がいる。 「よーし! 今日もあの野郎にプリントを当ててやるぜ!」 噂をすれば、野太い声が聞こえてきた。どうやらこちらに向かってプリントでも投げる気らしい。 プリントが秋山の頭に直撃したのと同時に、「ナイスショット!」と言うの野太い男の声と、クスクスと細い男の声が聞こえた。今度こそ舌打ちが出そうだ。 重いため息を一つ吐きながら、秋山は声がする方に向きやった。 「よし、次は下僕の沼田行け!」 太い野獣のような声を合図に、プリントは秋山のかけているメガネに直撃する。衝撃の影響で眼鏡が少し右に傾いた。 「お! 沼田くんにしてはいいショットじゃないですか!」 着崩した制服を着た大柄な男が、側にいる小柄なメガネ少年のバシバシと叩く。 クラスのリーダー滝川と、その下僕たち筆頭を務める沼田。 今、秋山にプリントを投げた犯人はこの二人だ。そんな事、誰の目にだって明らかだった。なのにクラスは二人を咎めようとしない。 なぜなら滝川はこのクラスのリーダー、所謂スクールカーストの頂点に位置していたからだ。 理不尽な待遇に対する怒りを抑え、秋山は再度文庫本に目を見やった。こういう時は無視が一番。今は亡き父が教えてくれた、唯一の教訓だ。 「おいおい秋山くん、この俺の情けを無視して読書ですか、そんなその本が面白いのかな?」 もちろん、滝川はそんな教訓が通じるような相手じゃない。太い太腿を揺らし、こちらに近づいてくる。 「よっ、秋山くんの陰気本ゲット!」 指から滲み出た脂汗は、潤滑油の役割を果たすのに十分だった。 「うぇ、何かこの本ベトベトしてる」 滝川のその声を聞いた女子生徒会長の佐藤莉華が「やだ、汚い」と短く言ったのを秋山は聞き逃さなかった。 滝川が気を取られている内に、秋山は沼田に懇願の 視線を送った。一瞬だけ沼田と目が合う。 沼田の瞳に悪意があるようには見えない。けれど滝川を止めるほど、勇気がこもっているようにも見えなかった。 こちらに向けられたのは、弱者を見るような蔑んだ視線だけだった。 「ふん! こんな薄汚い本、この滝川元助が成敗してくれる!」 そう言うと、滝川はゴツゴツとした両手を本の両ページに挟み込んだ。 破る気だ。そう確信した秋山は自分が出せる限りの大声で抵抗した。 「そ、その本は俺のだか破らないで!」 情けなくなるようなか細い声が、口から放出される。もちろんそんなか弱い抗議に滝川を止める力などあるはずも無く。 「おら! 成敗!」 掛け声と共に、文庫本は儚くびりびりと音を立てながら真っ二つに割れていった。紙の破片が頭の上や周りに落ちる。 何年も孤独を共にした本との唐突な別れに、秋山はその場に座り込むり。 「ははっ! 秋山のやつショックで女みたいに座りこんでやがる!」 手を叩いて笑う滝川には流石にムッとはしたが、言い返しはしない。ここで派手に暴れると滝川たちの思う壺だし、佐藤たちにまた新しい嘲弄の種を与えかねない。 秋山は即座に立ち上がり、くるりと廊下の方に踵を返した。 その姿が気に喰わなかったのか、背後から滝川の大きな怒声が聞こえる。 秋山が振り返ろうとした矢先、右肩に強い力を感じた。考える暇もなく、強制的に体を半回転させられる。 秋山の眼前には、顔を真っ赤に染めた滝川の姿があった。 「おい、お前どういうつもりだよ。全部無視しやがって、舐めてんのか!」 そう言うと滝川は青紫の血管の筋が見えるくらい、強く拳を握り込んだ。 殴られる。そう咄嗟に思った秋山は諦めの気持ちで、強く目を瞑った。 次の瞬間、鋭い頬への痛みとクラスメイトのクスクス笑う声が秋山の体と心を同時に襲った。   
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