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大学で助教の職につく佐久間は、実家が老舗デパート・松波屋の系譜なのだが、そんな「俗世間」にはまったく見向きもせず、江戸時代の書物を探究する書誌学の世界にどっぷり浸かっていた。
実は、同い年の本家の嫡男が周囲の反対の声を押し切って医者になって「権利」を放棄したため、本来ならば「継承権第二位」の佐久間がその任を引き受ける立場にあった。
だが、彼はするっと無視してこの道に進み、その後「第三位」にあたる従弟までもが自動制御機器などを扱う畑違いの会社に就職して、すっかりその座は「空位」になってしまった。
おかげで今、本家の嫡男の妹に、同業種デパートの御曹司との提携に向けた政略結婚の話があがっているのだが。
「……もし、君さえよければ、だけどね」
研究室のくたびれたソファセットの向こうに座る端正な顔立ちの佐久間は、彼の人となりを体現してそうな繊細な指でメタルフレームのブリッジをくいっと上げた。
「僕の奥さんがね、出版社で文芸にいるんだけれど、担当している作家が住み込みのアシスタントを探しているらしいんだ。ちょうど、東京から京都に越してきたばかりだそうでね」
今年三十九歳になる佐久間には七歳下の妻がいて、大手出版社の文藝夏冬に勤務していた。
「あぁ、『アシスタント』といってもね……要するに身の回りの世話をする『雑用係』なんだけども……君、料理とか家事はできる?」
栞は大きく肯いた。
「うちはもともと父子家庭で、姉が就職で上京してからは、祖母も高齢になってましたので、あたしが家のことをやっていました。
お料理は……祖母や姉からしか習ったことがないので『家庭の味』ですけど、嫌いではありません。お洗濯は洗濯機がほとんどをやってくれますし、お掃除の方はあまり得意ではありませんが……がんばります」
「本当に?はっきり言って、君が今までに勉強してきた分野とはかけ離れた家政婦のような仕事だよ?それでも……いいのかな?」
栞は先刻よりも大きく肯いた。
「いいです。ぜひ、紹介してください」
確かに、大学や院で培ってきたことは活かせないかもしれないが、作家のお宅なら少しは文学の「空気」が肌で感じられるかもしれないし。
それに、「表」に出ることのない「裏」の仕事だったら気が楽だ。
しかも、今時「住み込み」の仕事なんてめずらしいうえに、この京都から離れなくてもいいなんて、願ったり適ったりだ。
とにかく栞は、自分一人で生きていく基盤を早く固めたかった。
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