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黄色いカーネーション
私のパパは、すっごく強い。
重い荷物を軽々持つことができるし、背が高いし、手が大きいし、優しい。
何より、私のついた嘘を見抜いちゃう。
私の同級生は見抜けないのに。
「えー、何で私が嘘ついたって分かるの?」
「あはは、彩未は嘘つくの下手だからなぁ」
「そんなぁ……」
「パパは彩未のこと、何でも分かるよ」
そう言って、いつも私の頭を撫でる。パパの暖かくて大きな手が好きだった。
お菓子をこっそり食べても、テストで悪い点数を取っても、友達とケンカしても。
パパにだけは嘘が通用しない。
そんなパパが、絶対に勝てない相手がいる。
それは――ママ。
パパはママに絶対勝てなかった。
別に重い荷物持てるわけでもない、背も小さい、手だって小さいし、いつも怒鳴ってる。
そして私のことを生ゴミみたいに見つめる。
パパはそんなこと、絶対しない。
「あのねママ! 今日学校でね!」
「彩未、ママ疲れてるから黙ってて」
「でも今日ね、面白いことがあって……」
「何で言うことが聞けないわけ!? あんたなんか生まなきゃ良かった!!!」
そう言って、いつも私の頬を叩く。ママの冷たくて小さい手が嫌いだった。
パパはママに勝てない。二人でケンカすると、パパが絶対負ける。私はパパが負けたところしか見たことがない。
大学の偏差値、会社のお給料、交友関係。
パパはきっとママに劣っていたんだ。全部を比べるママの目は冷たくて、何かを品定めしているみたいで、とても怖い。
ママはパパにも手を上げるときがあった。お酒に酔った日は、殴ったり蹴ったり、パパを玩具のように扱う。
パパは犬で、ママは飼い主。
パパは奴隷で、ママはご主人様。
大好きなパパを傷つけるなんて、許せない。
いや、ママのことは大嫌いだ。
――必要ないのに、ママなんて……。
「いいかい彩未、ママのことを大嫌いなんて思っちゃ駄目だよ」
彩未を産んでくれた親なんだから、とパパは笑みを浮かべて私のことを抱きしめた。ママに殴られてできた痣のせいで、笑顔がぎこちない。ふんわりと石鹸の香りが鼻をくすぐる。
腕には目を向けるのもためらうような、青みがかった痣が残っていた。
「別に、私ママのこと好きだよ」
「彩未は本当に嘘が下手だなぁ」
私の髪に優しく触れて、痣のことなんて気にしないで思いきり笑うパパ。
痛いはずなのに、私を心配させないように笑っているんだろうな。偏見を持って、誰かのことを見下すママとは大違いだ。
「それより、もうすぐ母の日だろう?」
「うん」
「日頃の感謝を込めて、ママにカーネーションでも買ってあげたらどうだ?」
「カーネーション……」
パパの言葉で私はハッと目を見開いた。
そっか、こうすれば良かったんだ。
みんなが喜ぶプレゼントなんて、簡単じゃない。
5月の第二日曜日は母の日。
だけど私はパパのために準備を始める。
ママに感謝することなんて無い。
感謝を向けるのはパパ。大好きなパパを守ってあげなきゃ。私が守らないで誰が守るんだ。
でも私は小さくて弱いから、パパを守ることができない。だから、ボロくて弱い盾でパパを守るんじゃなくて。
「いつもありがとう、ママ」
ママに矛先を――ううん、槍を向けるんだ。
「何これ……黄色いカーネーション?」
「綺麗でしょ? 花言葉はね――」
ハサミよりカッターより鋭いもの。ママが私の頬を叩くときよりも、ずっと痛みが突き刺さるものじゃなきゃダメだ。
でもビックリしちゃったよ。こんな近くにいいものがあるなんて。
「『軽蔑』だよ」
鋭利な刃物でママを貫くと、べっしゃりと血が跳ね返った。事態を理解していないママは、横目で私を睨んで目の前に倒れ込んだ。
踞るママから、キツい香水と鉄分が混じった生臭い匂いがする。
足元はいつの間にか真っ赤な海に囲まれていた。暖かさを保った赤黒い溶岩みたいなものは、靴下を湿らせてドロドロ溢れ出る。
汚い「生ゴミ」がヒューヒュー言いながら、私に怒号を向けた。
「彩未っ……!!!」
「ママはパパの世界に必要ないよ」
別にママの手を縛っているわけでも、口元を塞いでいるわけでもない。
少ーしだけ、生きてた証を残そうと思って。
猶予を与えられたママは足掻いて足掻いて、必死にドアまで這いずっている。外へ出られたら誰か助けてくれると思ったのだろう。
くっきり血の塊が絨毯に絡み付いた。
でも残念、時間切れである。
パパに必要ないものは、私が消去するんだ。
パパは驚きを隠せない顔で私を見つめた。よほどビックリしたのだろう。会社から帰ると血の世界が広がり、無惨なママの死体が申し分なく置かれていたから。
切り刻まれたママを見て、パパは言葉が出ない様子。言葉が喉に引っ掛かっているみたい。
私にかける言葉が出てきそうなのに、目の前の死骸がパパの妨害をしているようだ。
「……誰に、殺られたんだ」
「誰って私だけど」
「こんなの……倫理に反するだろ……」
「リンリ? そんなの知らない」
今、私笑っている。
ママの居ない世界が、愉快だから。
一番最強だと思っていたのに、小学5年生の娘にあっさり殺られるなんて。
ほんと、可笑しすぎる。
「必要ないから私が処分しただけ」
そう言った瞬間、パパは泣き崩れた。
冷たくなった人形を優しく撫でる。血に触れても構わないようだ。最後はママの身体を起こして抱き締めた。
その触れ方は、私の頭を撫でるときと一緒。
その抱き方は、私を抱き締める時と一緒。
――何で。
何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で。
どうして……。
だってママはパパをいじめてたのに。
パパのこといっぱい殴ってたし、暴言だっていっぱい吐いてた。
なのにどうして。
ママのことを愛しそうな目で見つめるの?
私は間違ってない。
ちょっと存在を消しちゃっただけ。
私は間違ってないもん。
「……っ……ああっ……っ……はは、ははっ……はははははははははははははははははっ」
パパは満面の笑みを浮かべて私に抱きつく。予想外の展開に私は戸惑った。抱き締める力が強くて、ちょっと苦しい。
服にべったりと血の痕跡が残り、石鹸じゃなくて血の匂いが鼻をくすぐる。
私もパパを抱き締め返した。パパの身体は大きいから、両手いっぱい広げても、左右の手は交わらない。
「パパ?」
「彩未……」
「パパは嬉しい?」
「うん、嬉しい」
――なぁんだ。
パパも必要ないって思ってたんじゃん。
二回り大きな手が私の髪を優しく撫でた。いつもは何も感じないけど、今日はパパの手から花の香りがお便りを届ける。
それは私が買ってきた花の香りと同じ匂い。
「パパも何か買ってきてくれたの?」
「……彩未は鋭いね。彩未とママの為に買ったんだ。きっと喜ぶと思って」
「本当に!?」
「うん、これだよ」
そう言って私の前に姿を表したのは、
――黄色いカーネーション。
「黄色いカーネーション?」
「カーネーションといっても、特に黄色は様々な花言葉があるみたいだね。彩未は黄色のカーネーションの花言葉、知ってるかい?」
「調べたから知ってるよ! えっとね……」
淡い黄色を馳せる花の目の前で、私は声に出して指を一本ずつ曲げていく。
軽蔑、嫉妬、友情、美……。
あともう一つは何だっけ、思い出せない。
黄色のカーネーションは否定的な意味が多いから、誰かに贈る花として向いていないって、本に書いていた気がする。
そうして――ふっと脳裏に過る。
もう一つの、花言葉。
「え?」
目の前で起きている状況が分からなかった。
パパが優しく微笑んで、銀色に煌めく刃を私に向けていたから。
私が最後に発した言葉。
「――パパ?」
次の瞬間。
私の身体にトスっと包丁が突き刺さる。
パパが力一杯ねじ込むと、簡単に身体の中に入り込んできた。傷口は熱を帯びていて焼けるように痛い。重力を受けるまま、私の血液は下へ下へと流れ出る。
パパの足元にドサッと倒れ込んだ。目を見開いたママと目が合い、ゾッとする。
変わり果てたママの姿と、今の私の姿。どちらが悲惨な姿だろうか。
パパは目を細めて、声色高く話し始めた。
「いやぁ彩未がママを殺ってくれるなんて。パパの手間が省けたよ。ありがとう彩未」
パパは私の髪に大きな指を絡める。
違うって言って、パパ……違うよね?
あの花言葉を、私に贈るわけじゃないよね?
だってあれはママに向けるものでしょ。
私に向けるものじゃないじゃん。
「パパがママを殺るつもりだったけど、予定が早まったねぇ」
パパの高笑いする声も、照明の映る目も。
全てが殺気立っていた。悲しみと恐怖で、私の顔は涙でグシャグシャだ。
「ごめんねぇ、彩未。パパはねぇ」
黄色いカーネーションの花言葉。
「10歳までの女の子が、だぁいすきなんだ」
――愛情の揺らぎ。
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