有名人を生け花

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有名人を生け花

 大きかったので、残りは椅子の上に安定して座っていた。私はそれをトランクルームに残したまま、伊勢丹の紙袋を片手に持ってその場を走って後にした。  急いで処置をしないとこれまでの手間が無駄になってしまうので、私はマンションの階段を駆け上がった。途中他の階の住人と出くわしてしまったが、軽い会釈だけでその場を切り抜けた。  家に入ると、私は伊勢丹の紙袋を、机の上に用意してあった花瓶の隣に置いた。そして冷蔵庫を開けると、ピルクルの紙パックを3つ取り出し、次々に開けて、花瓶の中に注ぎ込んだ。  伊勢丹の紙袋に手を入れようとしたが、私は不意に冷静になって、洗面台で手を綺麗に洗った。断面から黴菌が入ったら痛みが早くなってしまう。私はリビングに戻って来て、慎重に伊勢丹の紙袋からそれを取り上げた。  マツコ・デラックスの生首は、それだけで子豚程の重量が感じられた(子豚など触ったことはないが)。私は生首の断面から主要な管をほじくり出して、ピルクルの入った花瓶の中に入れた。そしてバランスを確かめながら花瓶の縁にゆっくりと生首を置いた。マツコ・デラックスの脂肪が花瓶の縁を覆い隠した。  パチパチと肌色の波を立たせながら、私はマツコ・デラックスに声をかけた。 「気分はどうですか?」  少しして、マツコ・デラックスは気怠そうに眼を少し開けた。 「・・・あのさあ」  マツコ・デラックスは明らかに不機嫌だった。「なんでしょうか」と返事をする。 「これピルクルでしょ?」 「はい」 「なんか、イヤ」 「え~何がイヤなんですか?」 「どうせならヤクルトにしてよ」 「あれ小さいんで」 「小さいから美味いんだろ?そうゆうのがもう、嫌い。そういうところにこだわらなくなったら、どうでもいい女になるよ」 「そうですかねえ?」  私は適当に聞き流しながら、台所に立った。いつものように給湯器に水を入れて、スイッチを押し、お湯を沸かしている間に急須の中に紅茶の茶葉を入れる。その時、急須と紅茶のミスマッチ具合に今更気が付いて、「こうゆうところかもな」と思った。私はそれを改めてマツコ・デラックスに指摘されるのが恥ずかしくて、淹れた紅茶を台所でコップに注いだ。しかし「コップじゃなくてTカップじゃなきゃダメなのかな」と思って、結局その場に立って飲み始めた。  渋く、そして甘い匂いが鼻孔を温かく満たした。ベランダ向きにしてあったので、マツコ・デラックスのうなじにある、柔らかそうな脂肪の段差が見えていた。窓から日が差してマツコ・デラックスの頭頂部の団子の輪郭を光らせていた。私にはそこで埃が舞っているのが見えていた。 「あのさあ」  不意にマツコ・デラックスが声を発した。 「なんですか?」  若干咽ながらコップをシンクの縁に置く。 「いや、袋」 「え?」 「伊勢丹で運んでくれたのね」 「あ、はい」 「ありがとうな」 「いえ・・・」 「そこは素直に『どういたしまして』って言うんだよ」 「どういたしまして」 「その前にこっちに来てよ」 「すいません」  慌ててマツコ・デラックスの正面に回る。 「どういたしまして」  改めて言うと、マツコ・デラックスは釈然としない面持ちで「おう」と言った。  マツコ・デラックスのある生活がしばらく続いた。マツコ・デラックスは私の暮らしの様々なことに口を挟み、まるで姑のようだったが、常に自虐と謙虚さを交えて意見を言ったので、私は不思議と嫌な気持ちにはならず、マツコ・デラックスの言うことを素直に聞いた。またマツコ・デラックスは聞き上手で、仕事から帰って来ると決まって職場の愚痴を聞いてくれた。そういう時は特別なアドバイスはせず、ただ黙って頷いてくれた。  毎日新しいピルクル(余裕がある時はヤクルト)に入れ替えていたが、一ヶ月程経つと、マツコ・デラックスはすっかり痩せてしまった。髪が解れてしまったせいもあって、顔色はとても悪く見えた。髭が伸びてもう女性には見えなくなっていた。本来なら手放さなくてはならない時期だったが、私には中々それができずにいた。 「もういいでしょう」  ある休日の昼過ぎに、マツコ・デラックスが溜息交じりに言った。 「本当はお前から言わなきゃダメなんだからな」  マツコ・デラックスが笑いながら言ったので、私も「すいません」と笑いながら返したが、上手く笑えている気がしなかった。私は雰囲気を変えようと思って、マツコ・デラックスに提案した。 「あの、最後にお色直ししましょうか」 「いいよ。恥ずかしい」 「いいからいいから」  私はそう言うと、 自分の化粧ポーチを持って来て、マツコ・デラックスをなるべく元通りにした。  マツコ・デラックスは文句を言うこともなく、ただ黙って私のすることを受け入れていた。 「お前良い奴だな」  化粧が終わって鏡を向けると、マツコ・デラックスは言った。そして私の目をじっと見つめた。「今度こそ自分から言いな」という声が聞こえて来るようだった。 「じゃあ、行きましょうか」  微笑むマツコ・デラックスのすっかり軽くなった生首を、私は持ち上げた。 「段差に気を付けて」  そう言いながら私はマツコ・デラックスの手を引き、トランクルームから出した。 「何か曲がってないか?あと臭うんだけど」  マツコ・デラックスが首の接合部を不満げに触っている。私はその顔と体のバランスの悪さに思わず噴き出してしまった。 「可笑しくても笑うんじゃない」 「すいません」  私は涙を拭きながら言った。 「もう・・・」  マツコ・デラックスがぶつぶつと不満を言い始めたが、私にはそれが演出に過ぎないことは既に分かっていたし、そのサービスについてわざわざ言及することが野暮であることも分かっていた。  タクシーがやって来た。マツコ・デラックスは最後にハグをしてくれた。とても柔らかく、温かかった。 私はマツコ・デラックスが見えなくなるまでずっと手を振っていた。そしてタクシーが完全に道の向こう側に消えた後、「よし」と気合を入れて、次は誰を攫おうか考え始めた。
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